伝記
アフラニウス・シアグリウス(シャグリウスとも表記)は、430年頃に生まれ、486年か487年に没した人物で、西ローマ帝国の衰亡後もガリア北部に残ったローマ人支配地域、ソワソン管区のドゥクス(領主)である。ガリアの軍司令官(マギステル・ミリトゥム)アエギディウスの子で、父は西ローマ帝国が混乱してガリアへの支配がゆるんだ時期に帝国の代官を追放し、ソワソンを中心とする独自の支配地域を築いた。
その背景には、5世紀半ばの西ローマ帝国の衰えがある。454年にアエティウスが暗殺されるとガリアには持続的にまとまりを保てる軍事指導者がいなくなり、457年に即位した皇帝マヨリアヌスは、アエギディウスをガリアの軍司令官に任じて権威の回復を図った。ところが461年にマヨリアヌスがリキメルに殺されると、アエギディウスはリキメルが支持する皇帝たちを認めず、ソワソン周辺に自立した地域をつくった。彼はオルレアンの戦いで西ゴート王テオドリックの軍を破ったが、ブルグント人はローヌ川流域をリヨンまで押さえ、北ガリアは南ガリアのローマ領から切り離された。
465年に父が死ぬと、シアグリウスがソワソン管区の新たな支配者となった。ゲルマン人からは「ローマ人たちの王」と呼ばれ、トゥールのグレゴリウスもそのように記している。彼の統治は、ローマ的というよりゲルマン人と同じような形だったと推測されている。はじめはサリー族フランク人の王キルデリク1世の庇護を得ており、二人が共存したと考えられている。ところがキルデリク1世がイタリアの領主オドアケルとの講和に応じると、シアグリウスは西ゴート王エウリックを頼るようになった。
キルデリクが481年頃に死ぬと、シアグリウスはロワール川方面の軍の支配を主張したように見え、キルデリクの子クロヴィスとの直接の対立が始まった。486年頃、シアグリウスはメロヴィング朝フランク王クロヴィスとのソワソンの戦いで敗れ、トゥールーズにある西ゴート王アラリック2世の宮廷に逃れて庇護を求めた。しかし捕らえられてクロヴィスに引き渡され、487年に密かに刺殺されたとされる。
彼について知られることは乏しく、同時代の史料には名が見えず、主にメロヴィング朝期の、互いに食い違う記述に頼っている。このため従来はその「王国」が誇張されがちだったが、近年の研究では、領域は一時的な飛び地で、ソワソン市だけに縮まっていたかもしれないとされ、「王」の称号も王権というより政治的な呼び名と考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- 顕宗天皇 (487年)
同じ地域に関係する人物
- アデライード・ド・パリ (901年没)
- ルイ・デヴルー (1319年没)
- アルファーンス・グリセル (1942年没)
- エレオノール・ド・ロワイエ (1564年没)
- サン=カンタンのデュドン (1026年没)