HISTORICAL PERSON · 901年没

アデライード・ド・パリ

西フランク王ルイ2世(吃音王)の2番目の妻で、シャルル3世(単純王)の母。夫の死後の879年にシャルルを産み、898年にウード王が亡くなると、息子を西フランク王に選出させることに成功した。

生涯
901年没
死亡地
フランス共和国(エーヌ県 / ラン)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(エーヌ県)

伝記

アデライード・ド・パリは、850年から853年頃に生まれ、901年11月10日に没した西フランク王ルイ2世(吃音王)の2番目の妃である。シャルル3世(単純王)の母にあたる。父はマトフリート家に属するパリ伯アダラールで、パリ伯ベゴンの曾孫にあたり、ルートヴィヒ1世(敬虔帝)の血を引くとされる。ベゴンの妃アルパイスについては、敬虔帝の庶出の娘とも、カール大帝の庶出の娘ともいわれる。生年については、850年から860年の間に生まれたとする説もある。

シャルル2世(禿頭王)は、後継ぎである息子のアキテーヌ王ルイ吃音王の妃にアデライードを選んだ。ところがルイ吃音王は、すでにアンスガルド・ド・ブルゴーニュと秘密結婚をして子をもうけていた。その中には、のちのルイ3世とカルロマン2世となる二人の息子がいた。この結婚は父王の意に反するものだったとされ、862年からのことともいわれる。禿頭王は教皇ヨハネス8世に働きかけて、息子とアンスガルドの婚姻の無効を宣言してもらい、875年2月にアデライードはルイ吃音王と結婚した。しかし、血縁関係にある夫妻の結婚の正統性には教会側から疑義が唱えられた。878年9月に教皇がルイ吃音王の戴冠式を執り行った際にも、教皇はアデライードの王妃戴冠を拒んだ。血縁の近さが理由であり、場はトロワの公会議だったとされる。アデライードは875年から879年までアキテーヌ王妃であり、877年から879年までは西フランク王妃、ロタリンギアとプロヴァンスの王妃でもあったとされる。ルイ吃音王が父の跡を継いだのは877年のことである。

879年4月、ルイ吃音王はコンピエーニュで死去した。ポワティエ伯とル・マン伯に対する討伐遠征を準備している最中だったとされる。このときアデライードには息子がおらず、アンスガルドの産んだルイ3世とカルロマン2世が、ランス大司教ヒンクマールの支持を受けて共同で王位に就いた。だがアデライードは妊娠しており、夫の死から5か月後の879年9月17日に、のちのシャルル3世となる王子を産んだ。この誕生は、先妻アンスガルドとの対立に新たな火種をまくことになった。アンスガルドと息子たちはアデライードが不貞を働いたと非難し、アデライードは逆に、アンスガルドの息子たちの王位継承の正統性に疑問を投げかけた。長く困難な争いの末にアデライードが勝ち、シャルルは正統な子として認められたともいわれる。ルイ3世は882年に、カルロマン2世は884年に、いずれも子を残さず世を去った。

シャルルは幼かったため、王国はいったん皇帝に委ねられ、その後パリ伯ウードの手に渡ったとされる。ウードの王位をめぐっては、シャルルとの間で争いがあったともいわれる。898年にロベール家のウード王が亡くなると、アデライードは息子のシャルルを西フランク王に選出させることに成功した。898年のシャルルの戴冠式には母も立ち会い、その即位を助けたとされる。

それから間もない901年、アデライードは没した。没地はランとされ、没日は11月10日と伝わる。遺体はコンピエーニュにある聖コルネイユ修道院に葬られた。娘にはエルマントルドがおり、その娘クニグンデはロタリンギア宮中伯ヴィゲリヒの妻となって、ルクセンブルク家の母系の先祖につながるとされる。息子シャルル3世は879年に生まれ、929年まで生きた西フランク王である。

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