伝記
アレッサンドロ・スカルラッティは、1660年5月2日に生まれ、1725年10月22日に没したバロック期のイタリアの作曲家である。とくにオペラとカンタータで著名で、オペラにおけるナポリ楽派の始祖と考えられている。同じくバロック期の作曲家ドメニコ・スカルラッティの父であり、ほかに作曲家のピエトロ・フィリッポ・スカルラッティの父、フランチェスコ・スカルラッティの兄にもあたる。
シチリア島のトラーパニもしくはパレルモで生まれ、幼くして1672年にローマの親戚のもとへ送られた。初期の作品が北イタリアの作曲家ストラデッラやレグレンツィの影響を示すことから、ローマでジャコモ・カリッシミに師事したとされる。ローマで1679年に作曲したオペラが評判を呼び、当時ローマに滞在していた元スウェーデン女王クリスティーナの目に留まって、その楽長となった。同年には初のオラトリオも上演され、長男ピエトロ・フィリッポが生まれた。女王に仕えたおかげで洗練された聴衆に作品が知られ、とくに声楽の分野で急速に名を上げた。
1684年2月、元スペイン大使でナポリ副王となったガスパル・デ・アロの宮廷楽長に迎えられた。オペラ歌手で、ナポリの有力な貴族の愛人でもあった姉の働きかけが、この任命に寄与したという。翌年に六番目の子ドメニコが生まれた。ナポリには1702年まで勤め、約80のオペラを作り、うち約40が現存する。さらにオラトリオ9曲、セレナータ7曲、カンタータ65曲を書いた。この時期に、イタリア風序曲(急・緩・急)や伴奏付きのレチタティーヴォ、三部形式のダ・カーポ・アリアといった、モーツァルトの時代まで続く歌劇の骨格を確立した。
1702年にスペイン継承戦争の影響が副王の宮廷に及ぶと、ナポリを離れて各地を転々とした。フィレンツェのトスカーナ大公家の庇護を求めたが、まず宮廷の職は得られず、のちにその大公の劇場のためにもオペラを書いた。ローマではオットボーニ枢機卿に仕え、1703年にはサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の副楽長に就いた。この時期にはカンタータの注文が殺到し、1706年には貴族や学者に限られたアルカディア・アカデミーの会員に迎えられ、ヴァイオリン奏者アルカンジェロ・コレッリとも親交を結んだ。1707年にヴェネツィアのために書いた『ミトリダーテ・エウパトーレ』は、傑作とされている。
1708年にナポリへ戻り、1717年まで滞在したが、そのころナポリの人々は彼の音楽に飽きていたという。一方、ローマでは評価が高く、カプラニカ劇場で上演された『テレマコ』(1718年)、『マルコ・アッティリオ・レゴロ』(1719年)、『グリゼルダ』(1721年)などのオペラや、1721年に聖セシリアの祝日のためにアクアヴィーヴァ枢機卿に献呈された『聖セシリアのミサ曲』が好評を得た。このミサ曲は、のちバッハやベートーヴェンで頂点に達する合唱とオーケストラのミサの最初期の例として重要である。生涯の作品は、オペラ115曲、オラトリオ150曲、カンタータ500曲以上にのぼるともいわれる。500以上の独唱用の室内カンタータは、当時の室内楽の中で最も知的な部類に入るとされる。1723年にはスティリアーノ王子の婚礼のためのセレナータを作曲したが、これが最後の作品となり、未完に終わった。1725年にナポリで没した。その音楽は、17世紀の初期バロックの声楽様式と、18世紀の古典派とをつなぐ重要な橋渡しとされる。
同じ年に亡くなった人物
- Giovanni Battista Foggini (1725年)
- ルネ・ド・フルーレ (テッセ伯) (1725年没)
- Christian August of Saxe-Zeitz (1725年)
- スルハン=サバ・オルベリアニ (1725年)
- ロベール・ド・ヴィゼー (1725年没)
同じ地域に関係する人物
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- ソフォニスバ・アングイッソラ (1625年没)
- タンクレーディ (シチリア王) (1194年没)
- ニコラエ・バルチェスク (1852年没)
- アゴスティーノ・トダーロ (1892年没)