伝記
ジョージ1世は、1660年5月28日に生まれ、1727年6月11日(グレゴリオ暦では6月22日)に没した。グレートブリテン王国およびアイルランド王国の国王で、ハノーヴァー朝の開祖である。神聖ローマ帝国のブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)選帝侯でもあり、ドイツ語名はゲオルク・ルートヴィヒという。
ハノーファーで、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子エルンスト・アウグストとゾフィーの間に生まれた。ゾフィーは、母エリザベス・ステュアートを通じて、イングランド王ジェームズ1世の血を引いていた。ジョージは生まれた時点で、父と、子のない3人の伯父のドイツ領地の唯一の相続人となった。翌年に弟フリードリヒ・アウグストが生まれ、二人は一緒に育てられた。父は彼を狩りや乗馬に連れて行き、軍事を教えた。伯父たちが次々に結婚して相続に疑問が生じると、将来の不安定さを案じた父は、15歳のジョージを仏蘭戦争の戦役に連れて行き、戦闘で教育するとともにその力を試そうとした。1679年に伯父のヨハン・フリードリヒが男子のないまま亡くなると、父がカレンベルク侯領とゲッティンゲン侯領を継ぎ、首都はハノーファーに置かれた。1682年に一族が長子相続制の採用に合意したため、ジョージは領地を弟たちと分けることなく全て相続できることになった。
同じ年、従妹のゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレと結婚した。母ゾフィーははじめ、相手の出身を見下して反対したが、利益を示されて説得された。1683年には、弟とともに大トルコ戦争の第二次ウィーン包囲に参戦した。長子相続制のために父の領地を継げなくなった弟は、父やジョージと確執を生じ、1690年に戦死するまで続いた。1692年には、父が大トルコ戦争への貢献などから選帝侯に叙された。ゾフィー・ドロテアは息子と娘を産んだが、夫婦は疎遠になり、ジョージは愛妾エーレンガルト・メルジーネを好み、ゾフィー・ドロテアもスウェーデンの伯爵と不倫したとされる。結婚は、不倫ではなく、ゾフィー・ドロテアがジョージを捨てたという理由で解消され、彼女はツェレの城に幽閉されて、1726年に没するまで解放されなかった。
1698年に父が没し、ジョージは神聖ローマ帝国のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公、選帝侯となった。宮廷は哲学者のライプニッツや作曲家のヘンデルらでにぎわった。イングランドの1701年王位継承法により、ゾフィーは、ウィリアム3世と義妹アンが継承者なく死去した場合の継承者と定められた。ゾフィーが最近親のプロテスタントだったからである。1702年にアンが即位すると、ゾフィーは推定相続人となったが、イギリスの政治の複雑さを理解していたのはジョージのほうで、1705年の法でゾフィーとその継承者を帰化させるなど手を打った。同年、唯一存命だった伯父ゲオルク・ヴィルヘルムが死去し、ジョージはリューネブルク侯領などを継承した。スペイン継承戦争では帝国元帥としてライン川沿岸の帝国軍を指揮し、1708年に選帝侯として正式に承認された。
アン女王が崩御してステュアート朝が断絶すると、54歳でグレートブリテン王ジョージ1世として迎えられた。ドイツで育った彼は英語を理解できず、イギリス国民に嫌われたと言われるが、即位時の英語は少しかじった程度を超えていたとも考えられている。政務をロバート・ウォルポールに任せたことが、責任内閣制の発達を促したとされる。母国ハノーファーに戻る途中で卒中を起こして崩御し、ハノーファーに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ムーレイ・イスマーイール (1727年没)
- ウィリアム・クロフト (1727年没)
- アイザック・ニュートン (1727年没)
- ルイ・アルマン2世 (コンティ公) (1727年没)
- フィリップ (ヴァンドーム公) (1727年没)
同じ地域に関係する人物
- オットー・ハーン (1968年没)
- エルンスト・アウグスト・フォン・ハノーファー (1914-1987) (1987年没)
- マルガ・ペテルセン (2002年没)
- ベルンハルト・バイアー (2003年没)
- ダーヴィト・ファブリツィウス (1617年没)