伝記
オットー・ハーンは、1879年3月8日にフランクフルト・アム・マインで生まれ、1968年7月28日に没したドイツの化学者、物理学者である。放射化学の先駆者で、「核化学の父」とも呼ばれ、原子核分裂を発見して、1944年にノーベル化学賞を受けた。1946年までカイザー・ヴィルヘルム協会の最後の会長を務め、1948年から1960年までは、その後継であるマックス・プランク協会の初代会長を務めた。
ガラス職人の裕福な家に生まれた。父ハインリヒは、ガラス工事の会社を興した人物で、母はシャルロッテである。15歳のころから化学に関心を持ち、洗濯場で簡単な実験を行った。父は建築を学ばせたかったが、産業界の化学者になりたいと説得した。1897年にマールブルク大学で化学を学び始め、副専攻に数学、物理学、鉱物学、哲学をとった。1901年にマールブルクで博士号を取得し、一年の兵役を終えたのち、恩師のもとで二年間助手を務めた。産業界で働くつもりでいたが、就職先からは外国での生活と外国語の能力を求められたため、1904年にロンドンのユニバーシティ・カレッジに移り、希ガスの発見者として知られるウィリアム・ラムゼーのもとで働いた。この年に放射性トリウムを発見している。その後、モントリオールのマギル大学で、ラザフォードのもとで研究し、新しい放射性同位体をいくつか見つけた。1906年にドイツに戻り、エミール・フィッシャーから、ベルリン大学の化学研究所の地下にある、かつての木工所を研究室として借りた。1907年の初めに教授資格を得て、私講師となった。
1912年に、新設されたカイザー・ヴィルヘルム化学研究所の放射能部門の責任者となった。オーストリアの物理学者リーゼ・マイトナーとともに、彼女の名がついた建物で、画期的な発見を重ね、1917年にはプロトアクチニウムを発見した。1921年にはウランの核異性体ウラニウムZを発見した。第一次世界大戦では、国民軍の連隊や、フリッツ・ハーバーの率いる化学戦部隊で西部、東部、イタリアの戦線に従軍し、第一次イーペルの戦いでの働きで鉄十字章を受けた。1928年には研究所の所長となった。
ハーンは30年以上にわたり、マイトナーと共同で研究を続けたが、ユダヤ系であったマイトナーは、ナチスの迫害を避けて、1938年にスウェーデンへ移らざるをえなかった。その後も二人は連絡を取り合い、同年、ハーンはマイトナーに、ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、ウランより小さい原子が確認されたと手紙を送り、意見を求めた。マイトナーは、甥のフリッシュと共に、核分裂が起きたことを証明して、連名で発表した。ハーンは1938年に、ストラスマンとマイトナーとともに核分裂を発見したが、ノーベル化学賞はハーンだけに贈られた。ハーンはナチスの圧力に負けてマイトナーを外したともいわれ、受賞の演説でも、彼女の功績にほとんど触れなかった。マイトナーはハーンへの手紙に、「40年間の友情を裏切られた思い」と記した。今日では、ハーンは核分裂の発見者であり、マイトナーは核分裂の概念の確立者であるとされる。ハーンはナチスによるユダヤ人の迫害に反対したが、第二次世界大戦中は、ドイツの核兵器計画に加わり、ウランの核分裂生成物の分類を行った。戦争の終わりに連合軍に逮捕され、1945年7月から1946年1月まで、ファーム・ホールに他の9人のドイツ人科学者とともに拘束された。戦後は、ドイツの科学の再建に努め、1959年には、責任ある科学を掲げるドイツ科学者連盟の設立に加わった。
同じ年に亡くなった人物
- エミール・ヒルシュフェルト (1968年没)
- ホセ・ナサシ (1968年没)
- ヨン・レイフス (1968年没)
- フリッツ・シュティードリー (1968年没)
- ロバート・Z・レナード (1968年没)
同じ地域に関係する人物
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- カタリーナ・ヴァーサ (1610年没)
- ホルスト・シマニアク (2009年没)
- ジョージ1世 (イギリス王) (1727年没)
- ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト (1841年没)