HISTORICAL PERSON · 506年没

ラウレンティウス (対立教皇)

教皇シンマクスに対する対立教皇。両派の対立でローマ市中に流血の暴動が起き、東ゴート王テオドリックの仲裁でも決着せず、最終的に追放されて没した。

生涯
506年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
—
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ラウレンティウスは、第51代ローマ教皇シンマクスに対立した対立教皇である。生年は不明で、506年に没した。在位は498年11月22日から499年まで、および501年(502年とも)から506年までとされる。サンタ・プラッセーデ教会の首席司祭であったと伝わる。

498年11月22日にシンマクスが教皇に選出されると、これに反対する聖職者や少数の貴族らによって擁立されたのがラウレンティウスである。サンタ・マリア教会(おそらくサンタ・マリア・マッジョーレ)で選ばれ、ビザンツ帝国に好意的な一派が支持し、皇帝アナスタシオス1世の後ろ盾もあったという。教会の分裂は先代のアナスタシウス2世の時代に表面化していたが、この時代にはさらに深刻になった。テオドロス・レクトルを信用するならば、候補に選んだのは元執政官のルフィウス・ポストゥミウス・フェストゥスであった。フェストゥスは、教皇アナスタシウス2世がヘノティコンを承認するよう、皇帝アナスタシオスに密かに約束していたが、コンスタンティノポリスから戻ると教皇はすでに亡くなっていたという。

ラウレンティウス派とシンマクス派は聖職者のみならず元老院議員や民衆をも二分し、ローマ市中では流血の衝突が起きた。調停が必要となり、両派は東ゴート王テオドリックの待つラヴェンナへ赴いて主張を述べた。テオドリックは事情を検討し、シンマクスが正しく叙階された教皇の条件を満たしていると判断して、499年にこれを支持した。ラウレンティウス派の文書『ラウレンティウス断片』は、シンマクスが賄賂で決定を得たと主張する。ミラノの助祭エンノディウスは、有力者たちに400ソリドゥスが配られたと後に記した。

勝ったシンマクスは499年3月1日にローマで教会会議を開き、72人の司教とローマの全聖職者が出席した。王の裁定を受け入れることを確認し、今後は選挙の際に暴動や不正な運動が起きないようにするのがねらいであった。反対派をなだめるため、ラウレンティウスにカンパニアのヌケリア司教座を与えたともいう。502年の教会会議にヌケリア司教としてアプリリスの署名が見えることから、ラウレンティウスは着任しなかったか、すぐに解任されたと考えられる。しかし支持者たちは分裂を保った。フェストゥスに率いられた聖職者と元老院議員の一団は、復活祭を誤った日に祝ったこと、身持ちが悪いこと、教会財産を濫用したこと、姦通や聖職売買の罪を犯したことなどでシンマクスを告訴し、廃位を図った。テオドリックはシンマクスをリミニに召還したが、シンマクスは到着後、夜半に町を逃れてローマに戻り、サン・ピエトロ大聖堂に身を寄せた。この逃亡は有罪を認めたものと広く見られ、多くの聖職者がシンマクスとの交わりを絶ってラウレンティウスと交わりを結んだ。502年の紛糾した教会会議でも分裂は収まらず、ラウレンティウスは同年のうちにローマへ戻った。『ラウレンティウス断片』によれば、その後4年間、フェストゥスの支持を受けて市の教会を押さえ、教皇として統治した。

形勢が変わったのは506年である。ミラノの助祭エンノディウスと亡命中の助祭ディオスコルスの二人が外交工作を進め、王の侍医の助祭ヘルピディウスを説得し、さらにテオドリックを動かした。王はフェストゥスに、ローマの教会をシンマクスへ引き渡すよう命じた。決定が伝わると、ラウレンティウスは町を去ってフェストゥスの農場の一つに退いた。日々の争いで市を乱したくなかったためだと『ラウレンティウス断片』は述べる。そこで断食を続け、間もなく死んだという。

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