伝記
ソロモン・イブン・ガビーロールは、11世紀のスペインのユダヤ教徒の詩人であり、新プラトン主義の哲学者である。正式にはソロモン・ベン・イェフダー・イブン・ガビーロールといい、ベン・ガビーロール、あるいはラテン語名のアヴィケブロンの名でも呼ばれる。1021年か1022年頃にマラガで生まれたことは、諸説が一致している。没年は1058年頃にバレンシアで、あるいは1069年か1070年とも伝えられ、30歳前に没したとする説や48歳までに没したとする説もあって定まらない。30歳前説は中世の史料の読み違いに基づくと考えられている。
生涯については分かっていないことが多い。生活に困ることはなかったが、孤独で苦しい日々を送ったという。十代のころから、尋常性狼瘡かとも推測される病に悩まされ、虚弱体質だったと伝えられる。詩の中では自らを小柄で醜いと考えていたことをうかがわせる。モーセス・イブン・エズラは、短気な気質が理性に勝ち、偉い人々をあざけり皮肉るのが得意だったと記した。父はコルドバの名士だったが、1013年の政治的危機でマラガへ移ったとされる。両親は早くに亡くなり、孤児となった。有力者のイェクティエル・イブン・ハッサンの庇護を受けてサラゴサへ移り、タルムード、文法、幾何学、天文学、哲学の研究に没頭した。しかしその恩人が政治的陰謀で暗殺されると、1045年までにサラゴサを去らざるをえなくなった。その後はグラナダ王に仕えた宰相で将軍のサムエル・イブン・ナグリーラの庇護を受け、詩で称えたが、のちに不和となり、最も辛辣な皮肉の的にした。結婚はせず、残る生涯を放浪して過ごしたようである。
早熟な才能の持ち主で、17歳までに5篇の詩を作り、その一つはユダヤ教の613の戒律を数え上げたものだった。同じ17歳のころには友イェクティエルをいたむ200詩節の挽歌も作った。19歳までにはヘブライ語文法の規則を教える400詩節の詩を完成させたとされる。23歳か25歳でアラビア語の『品性の改善』を著した。主著『生命の源』は、28歳頃の作ともされる。
哲学ではプロティノスと同じく流出説をとり、最高の原理である神の意志から、知性、世界精神、自然の順に流出するとした。また、神を除くあらゆる存在者は質料と形相の合成であると考えた。この命題を初めて唱えた人として西方では有名になった。ここでいう質料は必ずしも物体ではなく、現実態に対する可能態を指す。この説はフランシスコ学派の神学者たちが主張し、トマス・アクィナスが反対した。『生命の源』は1150年以降にラテン語へ訳され、中世ヨーロッパの思想界に大きな影響を与えた。だが作者はラテン語名で知られたため、19世紀になって、中世の翻訳者がガビーロールの名をラテン語化していたことが研究者によって見いだされた。ユダヤ人のあいだでは、マイモニデスらが存在を知らなかったと思われるほど忘れ去られ、今日のユダヤ教では、ユダ・ハレヴィと同じく「神秘家」に分類される。
抒情詩はユダヤ教の典礼に残り、「罪の告白」で終わる聖歌「王冠」は、ヨーム・キップールの礼拝で唱えられている。逸話も残る。女性型のゴーレムを召使いとして作ったといい、それを聞いた王が罰しようと喚問すると、王の目の前で分解し、再び組み立てたという。死については、アラビア人の騎手に踏み殺されたという伝説や、嫉妬した詩人に殺されてイチジクの根元に埋められたという伝説がある。
同じ年に亡くなった人物
- 包拯 (1062年没)
- エステファニア (ナバラ王妃) (1062年(推定))
- アル=ムイッズ・ブン・バディース (1062年没)
- Adelaide of Hungary (1062年没)
- シルウェステル3世 (ローマ教皇) (1062年(推定))
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