伝記
シルウェステル3世は、11世紀前半のローマ教皇である。ローマの生まれで、実名はクレッシェンツィ・オッタヴィアーニのヨハネス、あるいはジョヴァンニ・デイ・クレシェンツィといい、名門の貴族クレッシェンツィ家の出とされる。生年ははっきりしないが、1000年頃と見られている。ジョヴァンニ・ロマーノやヨハネス4世という名でも記されている。教皇になる前の教育や聖職者としての経歴は分かっていない。1044年にサビーナの枢機卿司教に選ばれたとされる。
当時のローマでは、教皇位をめぐって貴族の派閥が争っていた。1032年に教皇ヨハネス19世が死去すると、トゥスクルム家に支持された20歳ほどの青年が、ベネディクトゥス9世となった。この青年は教皇の資質に欠け、放蕩な暮らしを送ったと伝えられ、派閥の争いは収まらなかった。1044年にはローマで反乱が起こり、ベネディクトゥス9世は市から追い出された。
激しく長引いた内輪揉めを経て、1045年1月、サビーナ司教だったヨハネスが教皇に選ばれ、シルウェステル3世を名乗った。選出の日付は1月13日、20日、21日などと伝えられ、在位も同年3月10日、あるいは4月10日までとされる。クレッシェンツィ家の支持があったともいわれる。のちに賄賂で選ばれたと非難されたが、その証拠は確認されていない。就任後まもなく、ベネディクトゥス9世は彼に破門を宣告し、3か月以内にローマへ戻ってヨハネスを追放した。ヨハネスはサビーナに帰り、手放していなかった司教の職に再び就いた。
約2年後の1046年12月、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世が開いたストリ教会会議は、ヨハネスを聖座の侵奪者として断罪し、司教職と司祭職の剥奪と修道院への送致を決めた。同じ会議では、教皇グレゴリウス6世も廃された。ところがこの処罰は延期されたことが明らかになっている。ヨハネスがサビーナの司教であったという記録が、1062年まで残っているからである。クレッシェンツィ家の庇護によって、教皇の禁令を無視して司教の務めを続けられたともいわれる。1049年から1053年の間には、教皇レオ9世に宛てて申立書を提出した。そこで彼は、ファルファ修道院長ベルナルドが、タンチアの聖ミケーレ教会について司教の権利を奪い、司教本人にも暴力をふるったと訴えている。1058年8月と11月には対立教皇ベネディクトゥス10世の発した文書に、サビーナ司教として名が見える。のちにニコラウス2世の側に付き、1059年から1061年にかけての教皇文書に署名した。アレクサンデル2世の時代にも、1061年10月から1062年6月まで署名が続いている。
後任の司教ウバルドゥスが1063年10月に就任したとの史料があり、そこにはヨハネスの死去に伴う後任と記されている。没年は1062年あるいは1063年とされる。シルウェステル3世を対立教皇とみなす意見も多いが、バチカンの歴代教皇の一覧には正式な教皇として名を連ね、在位は1045年とされる。同じような扱いは、1045年から1046年に在位したグレゴリウス6世にも当てはまる。ベネディクトゥス9世が追放されてから、ヨハネスが追われてサビーナへ戻るまでの数か月が、彼が教皇として過ごした期間だった。その短い在位は、のちに3人の教皇が並び立つ混乱へとつながっていく。教皇名のシルウェステル3世は、のちに対立教皇テオドリクスが再び用いた。
同じ年に亡くなった人物
- エルフガー (マーシア伯) (1062年)
- Adelaide of Hungary (1062年没)
- アル=ムイッズ・ブン・バディース (1062年没)
- 包拯 (1062年没)
- ソロモン・イブン・ガビーロール (1062年(推定))
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。