HISTORICAL PERSON · 1151年没

ジョフロワ5世 (アンジュー伯)

アンジュー伯・メーヌ伯・ノルマンディー公。1128年にイングランド王ヘンリー1世の娘マティルダと結婚し、ヘンリー2世の父となった。

生涯
1151年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ジョフロワ5世は、中世フランス王国の貴族で、アンジュー伯(在位1129年〜1151年)、メーヌ伯、ノルマンディー公(在位1144年〜1150年)を務めた。1113年8月24日に生まれ、1151年9月7日に38歳で没した。父はアンジュー伯フルク5世(のちのエルサレム王)、母はメーヌ女伯エランブルジュで、イングランド王ヘンリー2世の父にあたる。「美男公」と呼ばれ、ハリエニシダの枝を帽子に付けていたことから「プランタジュネ」の異名を得たともされる。ハンサムで陽気だったという評がある一方、冷酷で身勝手な性格だったともいわれる。

1128年、イングランド王ヘンリー1世の後継者とされた娘マティルダと結婚し、このとき義父から金獅子の盾紋を贈られた。マティルダは10歳以上年上で、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の皇后だったため気位が高く、当初の夫婦仲は険悪だったという。それでも夫妻は3人の男児をもうけ、1133年に長男アンリ(のちのヘンリー2世)が生まれた。翌1129年に父からアンジュー伯領を譲られ、父はエルサレムへ向かって、のちにエルサレム王位についた。夫妻は境界の城の支配権をヘンリー1世に求めて対立し、イングランドの貴族からも反感を買った。

1135年にヘンリー1世が死ぬと、マティルダの従兄であるブローニュ伯エティエンヌ・ド・ブロワがロンドンに入り、イングランド王スティーブンとなった。諸侯は、女王への抵抗感と宿敵アンジュー伯への警戒から、スティーブンを支持した。マティルダは1139年にイングランドへ上陸したが、ジョフロワ5世は、1135年の失敗ののち1136年ごろから、ノルマンディーの攻略に専念した。この征服は十数年にわたり、1144年にノルマンディー諸侯の忠誠を得て、フランス王ルイ7世からも公位を認められた。この間、アンジュー国内でも三度の貴族の反乱を鎮め、モントルイユ=ベレの攻略には1148年から3年を要した。1150年にはアンリにノルマンディー公位を譲った。

その後、ルイ7世のポワティエ代官ジロー・ベルレを捕らえて王と対立し、クレルヴォーのベルナルドゥスから破門を宣告された。仲介役のシュジェールが1151年1月に死ぬと争いが再燃した。8月にパリでベルナルドゥスから、ベルレの釈放と引き換えの破門解除を提案されて一度は拒んだが、同月末に態度を変え、ベルレを釈放した。アンリをルイ7世に臣従させて公位を保障され、破門も解かれて、係争地のヴェクサンも明け渡した。この豹変は、ルイ7世と不仲の王妃アリエノール・ダキテーヌをアンリと再婚させる目論見があったからとされる。

9月、ル・マンへ向かう途中のシャトー=デュ=ロアールで水浴びをして熱病にかかり、まもなく死んだ。遺体はル・マン大聖堂に葬られ、司教の命でエナメルの墓碑が作られた。遺言では、ノルマンディーとイングランドをアンリに、アンジューを次男ジョフロワに譲るとしたが、アンリは約束を破ってアンジュー全土を継ぎ、弟は1152年に挙兵して敗れた。1154年、アンリはイングランド王ヘンリー2世に即位し、プランタジネット朝が開かれた。教養も高く、アンジェの宮廷に学者を招いて論争するのを楽しんだ。将来のイングランド支配をにらみ、側近のジェフリー・オブ・モンマスに『ブリタニア列王史』を書かせて、大陸のノルマン人とブリテン島のブリトン人を結びつけようとしたともいわれる。義父から贈られた金獅子の盾紋は、ヘンリー2世ではなく孫のソールズベリー伯ウィリアム・ロングスピーに受け継がれ、彼はイギリス最初の紋章使用者として名を残した。

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