伝記
シュジェールは、1081年ごろに生まれ、1151年1月13日に没した、フランスの修道院長で政治家、歴史家である。フランス語ではスュジェと発音される。生まれたのはパリとサン=ドニの中間にあるアルジャントゥイユともいわれ、パリ北東のシェヌヴィエール=レ=ルーヴルともいわれる。家は裕福な農民層とも、小さな騎士の家ともいわれ、農奴の子だったとする歴史家もいる。1091年ごろ、9歳か10歳のときにサン=ドニ修道院に入った。父は妻の死後、息子を見習い修道士ではなく、奉献された子として修道院に差し出したとされる。この修道院の学校で、のちのフランス王ルイ6世と出会い、学友として過ごした。若いころから修道院に尽くし、法律の知識に秀で、図書館の本や古文書を読み、ラテン語を学んで古典の著者に親しんだ。
1107年にはノルマンディーで、1109年にはシャルトル近くのサン=ドニの分院で、院長代理として荘園の経営にあたった。1122年、41歳でサン=ドニ修道院の院長となると、修道院の腐敗の一掃に取り組み、大規模な改修を始めた。修道院長になってからは贅沢な暮らしをしていたが、クレルヴォーのベルナルドゥスに非難されて質素な生活に改めた。ただし教会を美しく飾ることを一種の信仰と考え、宝物を買い集め、修道院の建物の改修を続けた。
政治の面では、学友のルイ6世と、その子ルイ7世の2代にわたって政治顧問を務めた。ルイ6世のもとでは、武断派のヴェルマンドワ伯ラウル1世と並ぶ文治派の重臣として、政治の相談役を務め、戦後処理の和睦工作やローマ教皇庁との外交を担当した。1135年には、ルイ6世と敵対していたブロワ伯でシャンパーニュ伯のティボー4世を、ラウル1世とともにルイ7世の後見人にするという条件で懐柔した。1137年にルイ7世とアリエノール・ダキテーヌの結婚式に、ラウル1世、ティボー4世とともに同行し、同じ年に即位したルイ7世とポワティエの争いにも介入して穏便に済ませた。しかしアリエノールの怒りを買い、宮廷から遠ざけられた。ルイ7世が武断派のラウル1世に傾き、ポワティエ遠征に協力しなかったティボー4世を疎んじたため、彼と親しい和平派のシュジェールも疎まれたという背景もあった。
1136年、または1140年には、最初のゴシック建築の聖堂とされるサン=ドニ大聖堂の建設が始まった。歴代のフランス王の墓所となる大聖堂であり、シュジェールをゴシック芸術の「父」とする見方には異論もある。聖堂は1144年6月11日に献堂され、その式で、ラウル1世、ティボー4世、ルイ7世の仲介を務めて政治顧問に復帰した。ルイ7世が第2回十字軍に出征して不在だった1147年から1149年には、その摂政を務めた。帰国したルイ7世は彼に「国父」の称号を贈った。十字軍のあとで不仲になったルイ7世とアリエノールの仲を取りなし、1150年にアンジュー伯でノルマンディー公のジョフロワ5世とルイ7世が対立したときも、仲介に動いた。ノルマンディーへ出兵する寸前のルイ7世を説得して思いとどまらせたが、翌1151年に亡くなり、遺体はサン=ドニ大聖堂に葬られた。仲介者を失ったルイ7世とアリエノールの仲は破局を迎え、翌1152年に二人は離婚した。
シュジェールはまた、『ルイ6世伝』『ルイ7世伝』をはじめとする歴史書を著した。これはフランスの王室による修史事業の発端であり、中世フランス史の第一級の史料と評価されている。
同じ年に亡くなった人物
- アンティオキアのゲオルギウス (1151年)
- アデライザ・オブ・ルーヴァン (1151年没)
- 金富軾 (1151年没)
- ジョフロワ5世 (アンジュー伯) (1151年)
同じ地域に関係する人物
- アブデルハミド・アバウド (2015年没)
- ルイーズ・マリー・ド・フランス (1787年没)
- ルイ3世 (西フランク王) (882年没)
- ニコラ・ルブラン (1806年没)
- Rene Tirard (1977年没)