伝記
アレクサンデル1世は、ローマ教皇の第6代(使徒ペトロから数えて5人目の後継者)とされる人物である。在位は105年から115年とも、106年から115年、あるいは109年から116年ともされ、教皇庁年鑑は108年または109年から116年または119年としている。生年は不明で、没年は117年ごろと推定される。おそらくローマ生まれのローマ人で、殉教したであろうと考えられているが、確実にわかっていることはほとんどない。カトリック教会と正教会の双方で聖人とされ、東方の一部の教会では5月3日または3月16日に祝われる。
古代の記録では、2世紀後半に著作を残したリヨンのエイレナイオスが、彼を使徒継承の上で5番目の教皇に数えている。ただしエイレナイオスは殉教には触れていない。エウセビオスは約10年の在位を伝えており、ヘゲシッポスがローマで作成した司教の一覧にも名があったことを疑う理由はないとされる。在位年代は研究者によって異なり、デュシェーヌは106年から115年、ライトフットは109年から116年とした。
その後の伝承は、『教皇の書』に記されたものが中心である。それによれば、彼は皇帝トラヤヌス(在位98〜117年)の治世にローマの教会を導き、ノメンターナ街道で斬首されて殉教したという。ミサの典礼に聖餐制定の記念の言葉を加えたともされるが、1907年のカトリック百科事典を含め、この説は正確でないと見る専門家が多い。『教皇の書』のこの部分は5世紀末ごろに書かれたとみられ、初期の司教たちが教令で教会を治めたという古い型を示す意図があったとも説明される。また、塩を混ぜた聖水で信者の家を清め、悪い影響を払う習慣や、聖餐のぶどう酒に水を混ぜる習慣を始めたともいわれるが、これらも疑わしいとする見方がある。それでも、ローマの教会の典礼や運営が形づくられていく時期に、何らかの役割を果たした可能性は否定できないとされる。
伝説も多い。鎖につながれた彼が看守クイリヌスの娘バルビナを癒やし、父娘が改宗して殉教したという話がある。後代の伝承には、ハドリアヌス帝の時代にローマの長官ヘルメスを奇跡によって家の者ごと改宗させたという話や、幼子イエスの幻を見たという話もある。ヴェネツィアのクロッタ家のためにティエポロが描いた絵には、殉教者アレクサンデルの切られた首から香り高い花が咲き、それを見た異教徒の王が改宗する伝説が表されている。
1855年、ローマ近郊で殉教者アレクサンデル、エウェンティウス、テオドゥルスの半地下の墓地が発見された。伝承が殉教の地とする場所にあたり、一部の考古学者はこの殉教者を教皇と同一人物とみた。デュシェーヌは同一視を退けたが、両者の混同は『教皇の書』の編纂以前にさかのぼるとも認めた。一部のミサ典書は5月3日に教皇と殉教者を重ねて祝ったが、現在のローマ殉教録は3人を別の殉教者として並べ、教皇とは記していない。遺骨の一部はアヴェンティーノの丘のサンタ・サビーナ教会に、別の一部はルッカの墓所にあるとされ、834年にバイエルンのフライジングへ移されたともいわれる。偽イシドルス教令集には彼のものとされる書簡が収められているが、後代に編まれた殉教伝は真正なものではない。初期の教皇の年代をめぐっては19世紀に疑問が出されたが、ライトフットやデュシェーヌらが検討を重ね、反論を加えている。
同じ年に亡くなった人物
- アウルス・コルネリウス・パルマ・フロントニアヌス (117年)
- Gaius Julius Quadratus Bassus (117年)
- トラヤヌス (117年没)
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