HISTORICAL PERSON · 117年没

トラヤヌス

ネルウァ=アントニヌス朝の第2代皇帝で、五賢帝の一人。属州出身の初の皇帝で、ダキアやパルティアで功績を挙げ、帝国史上最大の版図を実現した。

生涯
117年没
死亡地
トルコ共和国(アンタルヤ県 / Selinus)
出生地
古代ローマ(イタリカ)
出典
世界地図
トルコ共和国(アンタルヤ県)

伝記

マルクス・ウルピウス・トラヤヌスは、ローマ帝国のネルウァ=アントニヌス朝の第2代皇帝で、在位は98年から117年である。53年9月18日、ヒスパニア・バエティカ属州の植民市イタリカに、元老院議員であった同名の父の子として生まれた。バエティカは現在のアンダルシア地方とほぼ重なり、全属州の中でもとくにローマ化が進んだ地域で、イタリカもイタリア本土からの移民が主体の都市であった。トラヤヌス家はイタリア本土に祖先を持つ古いローマ人の家系で、彼は属州出身の最初の皇帝として知られるが、属州民の血を引くというのは誤解だとされる。

青年期に軍団への参加を通じて経歴を築き、父がシリア総督となった74年には、幕僚として同行した記録が残る。76年に財務官、84年に法務官となり、86年にはヒスパニア・タラコネンシス属州に軍団長として駐留した。上ゲルマニア属州総督がドミティアヌスに反旗を翻した際には、その鎮圧に功績をあげた。91年に執政官となり、シリアから建築家ダマスクスのアポロドロスを連れて帰国している。96年にドミティアヌスが暗殺されると、高齢で子のなかったネルウァが皇帝に即位し、97年に近衛隊に強いられる形でトラヤヌスを後継者に指名したとされる。翌年ネルウァが崩御すると、養子として家督を継いでいたトラヤヌスが、軍の支持もあって円滑に即位した。即位後は強圧的な統治を避け、ドミティアヌスの時代に不当に投獄された囚人を解放し、没収された私有財産を元の持ち主に返した。元老院からは「至高の」を意味するオプティムスの称号を贈られた。

最初の大きな事業がダキア戦争である。ローマはドミティアヌスの時代にダキア王デケバルスの軍に大敗し、賠償金を払って撤退する屈辱を味わっていた。101年、トラヤヌスは親征してドナウ川を渡り、タパエの戦いで勝利し、翌年の戦いを経てデケバルスを降伏させ、「ダキクス・マキシムス」の称号を与えられた。しかしデケバルスは再び蜂起して105年にローマ領へ侵攻したため、106年にアポロドロスが架けた大橋を渡って再度遠征し、王都サルミゼゲトゥサ・レギアを陥落させた。デケバルスは逃れた末に自害したという。旧王国領はダキア属州となり、大規模な植民が行われ、金鉱開発は新たな財源となった。ローマ市には勝利を祝う記念柱が建てられ、遠征の経過を後世に伝えている。同じころ、属国ナバテア王国の君主が病没し、王国はアラビア・ペトラエア属州として併合された。

平時のトラヤヌスは、市民の皇帝として人気の維持に努め、トラヤヌスのフォルムや市場、各地の凱旋門、トラヤナ街道などを整えた。孤児救済のアリメンタ政策を正式化し、その目的は議論が分かれるが、元老院議員の資産の3分の1をイタリアに投資させる定めもつくった。113年、パルティアがアルメニアに傀儡の王を立てたことをきっかけに、パルティア戦争を始めた。トラヤヌスはアルメニアを属州とし、北メソポタミアを制圧し、116年にはセレウキアとクテシフォンを占領して、ペルシア湾に到達した。前年に贈られた「パルティクス」の称号もこのころから名乗った。こうしてローマ帝国は史上最大の版図に達したが、遠征は湾岸周辺で切り上げられて帰還へと向かい、トラヤヌスは117年8月8日に没した。同時代から優れた君主として尊敬され、のちにギボンも五賢帝の一人として賞賛した。

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