伝記
ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハは、中世ドイツの詩人である。生年は1160年とも1180年頃ともいわれ、没年は1220年頃かそれ以降とされる。『ニーベルンゲンの歌』とともに中世ドイツ文学で最も重要な叙事的作品とされる『パルチヴァール』の作者で、ほかに叙事詩『ヴィレハルム』『ティトゥレル』を残した。『ヴィレハルム』は十字軍文学でありながら寛容の精神を訴える作品であり、『ティトゥレル』は若い男女の瑞々しい恋を悲劇の予感とともに描く。ミンネザングの歌人としても、伝わる数は少ないが優れた抒情詩を残している。
伝記的な記録は残されておらず、同時代のハルトマン・フォン・アウエやゴットフリート・フォン・シュトラースブルクについても同様である。生涯は詩人自身の作品や後世の詩人の記述から推測するほかなく、『パルチヴァール』が13世紀の初め、『ヴィレハルム』と『ティトゥレル』が13世紀の10年代の成立と考えられることから、生没年が推定されているにすぎない。出身地はニュルンベルクの南西36キロ、現在のヴォルフラムス=エッシェンバッハとされ、バイエルン王マクシミリアン2世が建てた立像が1861年に除幕され、1995年には記念の博物館が開館した。身分は、『パルチヴァール』で「楯とる職が私の本務である」と述べていることから、低位であれ騎士だったと思われる。後世の詩人が称えるほど高位だったかは疑わしい。また、「私は一文字も知らない」と述べているが、これは文盲や無教養を意味せず、装われた謙遜と解されている。原典に忠実な翻訳を旨とするハルトマンとは異なり、原典にとらわれず自分の知恵で自由に語る覚悟を示したものだろうという。作品には博物学、地理学、医学、天文学などの知識や神学的考察が盛り込まれ、古フランス語の文学にも通じていたと思われる。
作品の記述から、彼は生涯のうちにいくつかの宮廷に仕えたと推測されている。『ヴィレハルム』の冒頭には、テューリンゲン方伯ヘルマン1世が、おそらく後援者として紹介されている。『パルチヴァール』にも、ヘルマンの宮廷に滞在したことを示唆する記述がある。ヘルマンはヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの庇護者でもあった文芸の保護者で、1190年に方伯領を得て1217年4月25日に死去した。のちに、その宮廷を舞台に「ヴァルトブルクの歌合戦」が行われたという伝説が生まれ、ワーグナーが歌劇『タンホイザー』に仕立てた。このほか、『パルチヴァール』に「私の主人ヴェルトハイム伯」と言及があることから、ヴェルトハイム伯家も主君か支援者であったとみられ、経歴はその伯への奉仕で始まったとする推測もある。ドゥルン男爵家、トリューエンディンゲンの男爵家、アーベンベルク伯家とのつながりを推測する研究者もいる。
『パルチヴァール』は最も有名な作品で、ドイツ語で書かれた最初の聖杯伝説の作品でもある。パルチヴァールの両親の物語から、誕生と幼少期、円卓の騎士の時代を経て聖杯王になるまでと、円卓の騎士ガーヴァーンの物語という、二人の主人公の物語を描く。主要部分はクレティアン・ド・トロワの『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』に依拠しつつ、かなり自由に翻案している。クレティアンの作品はガーヴァーンの物語のところで中断しており、ヴォルフラムの作品の冒頭部と結末部は、彼自身が原著者であろうと考えられている。彼は作中でクレティアンは物語を正確に伝えていないと非難し、プロヴァンスの詩人キオートの原典のとおりに語ると述べたが、このキオートも今日では彼の創作と考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- ギラルドゥス・カンブレンシス (1220年(推定))
- ボギスラフ2世 (ポメラニア公) (1220年代没)
- ジェベ (1220年代没)
- ウラカ・デ・カスティーリャ (ポルトガル王妃) (1220年没)
- リキサ・ア・ダンマーク (スウェーデン王妃) (1220年没)
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