HISTORICAL PERSON · 1220年代没

ジェベ

かつて敵将としてチンギス・カンを矢で負傷させながら許されて臣下となり、以後は西遼のクチュルクを討伐し、カルカ河畔の戦いでルーシ連合軍を破るなど征西で活躍した。

生涯
1220年代没
死亡地
ウクライナ(チェルカースィ州 / ウクライナ)
出生地
モンゴル国(モンゴル国)
出典
世界地図
ウクライナ(チェルカースィ州)

伝記

ジェベは、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カンに仕えた千人隊長で、1224年か1225年に没した。ベスト氏族の出身で、はじめはタイチウト氏に属する隷属民であった。もとの名はジルゴアダイといい、チンギスの命令でジェベと改めた。スブタイ、ジェルメ、クビライ・ノヤンらとともに、「四狗」の1人に数えられた。型にはまらない大胆な動きによって、「史上最高の騎兵の将軍」と評されることもある。

1201年(1202年ともいう)、ジルゴアダイは、タイチウト氏の首領タルグタイ・キリルトクに従って、チンギス・カンと戦った。戦いの最中、ジルゴアダイの放った矢が、チンギスの首に命中したが、ジェルメの看病により、チンギスは一命を取りとめた。乗馬も、敵の矢で失っていた。戦後、チンギスは、自分の馬を射た者を探し求め、ジルゴアダイは、自分が狙撃したと名乗り出た。馬ではなくチンギス自身を狙ったと答え、助命を受ければ忠義を尽くすと言った。チンギスは、その誠実さをたたえ、彼を許して臣下に迎え、モンゴル語で「木の鏃の矢」を意味するジェベの名を与えた。ジェベは百戸長となり、1206年のチンギスの第二次即位の際には、千戸長の地位に就いた。同じ1206年のナイマン遠征では、クビライ・ノヤンとともに先鋒を務めた。

1211年からの第一次対金戦争で、ジェベは、1212年に金に反乱を起こした契丹人の耶律留哥への援軍として派遣された。遼陽を攻撃し、都市の守りが固いと知ると、奇襲をかけ、1213年1月に制圧した。易州に進んでチンギスと合流したのち、居庸関の攻略を命じられ、これを陥落させた。

1218年、西遼の王位を奪ったナイマンのクチュルクを討つため、ジェベは2万の兵を率いて派遣された。カシュガルを攻撃するとき、信仰の迫害を受けていたイスラム教徒に信仰の自由を約束すると、住民はクチュルクに対して反乱を起こした。ジェベは、逃げたクチュルクを追撃し、バダフシャーンの山中で捕らえて殺した。戦後、クチュルクの首をかかげて、征服地の都市を凱旋し、弾圧に不満をもつ市民に歓迎された。また、忠誠の証しとして、かつて射殺したチンギスの乗馬と同じ白馬を、1000頭(100頭ともいう)、征服地から探し出して献上した。1219年の西征では、サマルカンドから逃げたホラズム・シャー朝のスルターン、ムハンマドを追って、1万の騎兵を率い、スブタイとともに派遣された。ホラーサーンに入ってバルフとニーシャープールを降伏させ、1220年5月にムハンマドを見失った後は、イラン高原西部で破壊を行った。ムハンマドは1220年末にカスピ海の島で没したが、2人はそれを知らないまま追撃を続けた。

イランから北上してアゼルバイジャンに進み、イルデニズ朝から臣従の誓いを受けた。1221年2月にグルジア王国を攻撃し、アゼルバイジャン軍を先頭に立てて、グルジア軍が疲れたところに本隊が突撃して勝った。1222年末までに、アゼルバイジャン、グルジアなどで破壊と略奪を行い、コーカサス山脈を越えて北上し、キプチャク草原に入った。1223年5月31日、カルカ川で、ルーシ諸侯とキプチャク人の連合軍と衝突し、勝利した。ジェベとスブタイの軍は、アゾフ海沿岸とクリミア半島で略奪を行い、1223年末にヴォルガ・ブルガールに侵入した。ルーシの『ノヴゴロド年代記』の1224年の条には、この攻撃が、地獄から来襲した「タルタル」の到来として記された。ジェベは、モンゴル高原への帰国の途上、アラル海のほとりで病没した。死後、彼の子の忽生孫に千戸長の地位が与えられた。

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