伝記
ファリードゥッディーン・アッタールは、現在のイラン東部、ホラーサーン地方のニーシャープールに生まれた神秘主義詩人である。1140年代頃から1221年頃の人とされるが、生没年は確定していない。「アッタール」とはアラビア語で薬物や薬草を扱う薬物商を指す語で、前近代の薬物商は薬の調合のほか、患者の簡単な診療も行っていた。伝承では、彼は父から受け継いだ薬物商を営みながらスーフィズムの詩作に打ち込んだといわれる。宮廷詩人でも専業の修行者でもなく、町で生業を営みつつ神秘主義の詩を数多く残した点が、この詩人の特徴である。
生涯については、自著で自分のことをほとんど語らなかったうえ、後世に付け加えられたらしい伝説的な逸話が多く、詳しくは分かっていない。確かな伝記は死後数世紀を経たものしかなく、15世紀後半にジャーミーが著した聖者列伝や、ダウラト・シャー・サマルカンディーの『詩人伝』が最も早いものである。同時代人で彼に触れるのはアウフィーとトゥースィーの二人だけだとされる。裕福な薬物商の息子で、よい教育を受けたらしい。幼いころから父に促されてスーフィーたちの言葉や生き方に関心を抱き、その聖者たちを精神の導き手と仰いだという。薬局では訪れる人々が悩みを打ち明け、それが深く心に残ったともいわれる。やがて店を離れ、バグダード、バスラ、クーファ、メッカ、メディナ、ダマスカス、ホラズム、トルキスタン、インドなどを旅して各地のスーフィーの導師たちと会い、神秘主義の思想を説いて帰ったと伝えられる。生涯にメッカ巡礼を行ったともされる。
没年についても説が分かれる。ジャーミーはヒジュラ暦627年に異教徒のモンゴル人に殺され、そのとき114歳だったと記し、サマルカンディーは1119年の生まれで、ヒジュラ暦627年に114歳で殺されたとした。長くこの説が信じられてきたが、114という数字は『クルアーン』の114章に合わせたものにすぎないとして、現代の研究ではほぼ否定されている。20世紀のイランの研究者ナフィースィーは生没年をヒジュラ暦537年から627年、フォルーザーンファルは540年から618年(1145年から1221年)と推定した。1221年4月にモンゴル軍がニーシャープールで行った虐殺で、78歳で非業の死を遂げたとも伝えられる。墓廟はニーシャープールにあり、16世紀にアリー・シール・ナヴァーイーが建て、1940年にレザー・シャーの治世に全面的に改修された。
作品は俗説で約114編とされるが、現存するのは20編近くである。研究者の精査で真作と認められるのは、散文の『神秘主義聖者列伝』と、韻文の『鳥の言葉』『神秘の書』『神の書』『厄災の書』『四行詩選集』などである。最も美しいとされる『鳥の言葉』は寓話で、鳥たちがヤツガシラの案内で神の象徴スィームルグを探しに出る。多くは途中で脱落し、30羽だけが七つの階梯を越えて頂に至り、探していたスィームルグが自分たち自身であると悟る。
作風は、難解な教義を説くのではなく、聖者たちの逸話や身近な比喩を用いて分かりやすく語るものだった。西欧の研究者からは「生来のストーリーテラー」と評され、本人も作中で自らを「おしゃべり」「多弁」と称した。晩年のニーシャープールで、まだ若かったルーミーに詩集『神秘の書』を贈ったという逸話は名高い。ルーミーはサナーイーとアッタールを先達と仰ぎ、自らをその精神的後継者とみなしていた。アッタールはサナーイー、ルーミーとともにペルシア神秘主義の三大詩人に数えられる。
同じ年に亡くなった人物
- ナイムディン・クブラ (1221年没)
- ベレンガリア・デ・ポルトゥガル (1221年没)
- ドミニコ (1221年没)
- アリックス・ド・トゥアール (1221年没)
- ディートリヒ (マイセン辺境伯) (1221年没)
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