伝記
オロシウスは、ローマ帝国後期のキリスト教の聖職者であり、歴史家、学者である。383年頃に生まれ、417年以降に没したとされる。パウルス・オロシウスとも呼ばれるが、これは写本の表記の誤りで、単にオロシウスだったと考えられている。ただ、直後の時代の著者の記述にすでにパウルスの名が現れることから、パウルスはキリスト教徒としての名で、オロシウスは土着の名だったという見方も退けられていない。生涯には不確かな点が多く、生年や没年を含めて確実に分かることは少ない。
出身地には諸説あるが、ヒスパニアの属州ガラエキアの中心だった現在のポルトガルのブラガとする説が有力である。ほかにタラコ、ラ・コルーニャ、ブリタニアとする説もあるが、一つの手がかりしかなく根拠は弱い。ブラガ説は、本人の著作やアウグスティヌスの書簡第166と第169に支えられるという。生年については、415年にアウグスティヌスが彼を「新しい司祭」と呼んだことから、若いが司祭であるため30歳から40歳のあいだとなり、375年から385年の幅が出る。そのうち383年が有力で、アウグスティヌスのもとを訪れたときに32歳、司祭叙階から2年という計算になる。上層のキリスト教徒の家系に生まれ、社会的にも恵まれ、良い教育を受けたと考えられている。
ヒスパニアにまで進出したゲルマン人勢力から逃れ、414年までにアフリカに渡った。そこで教父アウグスティヌスに師事し、ヒッポで過ごした。キリスト教徒として見聞を深めるために各地を訪れ、地中海南岸のヒッポやアレクサンドリアなどを旅したとされる。415年、アウグスティヌスに選ばれてパレスチナに赴き、ヒエロニムスらと情報を交わした。エルサレムでは、師のかわりにペラギウスと神学論争をかわし、教会会議にも出席した。帰路には聖ステファノの遺物を携えたという。帰国後は師アウグスティヌスのもとで、数多くの神学書や歴史書を書いた。『神の国』の執筆にも協力したとされる。
その後の生涯はまったく分からない。死去の時期も不明で、研究者はおそらく5世紀初頭とみるが、証拠はなく、423年より後ではなさそうだともいわれる。伝記の手がかりは、マルセイユのゲンナディウスやサラゴサのブラウリオの記述、アウグスティヌスの書簡、そして本人の著作に限られる。
著作は三つあり、なかでも主著は『異教徒に反駁する歴史』である。キリスト教史観に基づく最初期の歴史書で、アウグスティヌスの『神の国』を補うために書かれたとされる。太古から著者の生きる時代までを語り、異教の諸民族にも大きな役割を与えた。この書は古代から中世への移行期の歴史叙述でもっとも反響の大きい作品のひとつで、著者が自らの歴史の方法を示した点でも重要である。ルネサンスまで古代を学ぶ主要な書として用いられ、中世には必修の史書と仰がれた。9世紀のイングランドでは、アルフレッド大王の学芸振興策の一環として古英語訳が作られた。10世紀のアンダルスで作られたアラビア語訳(『オロシウスの書』)は、ハカム2世の図書館に収められたと推測される。ヒエロニムスやイシドルスなどのラテン語キリスト教著作からの抜粋も加えた独自の編纂を経ており、史学史上も貴重である。その歴史の方法は、後代の歴史家たちにも大きな影響を与えたとされる。ヒスパニア史の上でも、きわめて影響の大きい書物のひとつと位置づけられている。
同じ年に亡くなった人物
- スーサのアブダス (418年)
- ゾシムス (ローマ教皇) (418年没)
- Attaces (418年)
- ワリア (418年没)
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