伝記
ワリアは、西ゴート族の王である。西ゴート王国を建国した初代の王とされ、在位は415年から418年。生年は不明で、385年とする説もある。偉大な戦士で慎重な統治者との評判を得たという。415年、西ゴート族と王アタウルフは、コンスタンティウス3世率いるローマ軍に押されてイベリア半島へ移動した。同年にアタウルフはバルキノで暗殺された。アタウルフは414年にガッラ・プラキディアと結婚しており、ローマの傀儡だと見た部下に殺されたといわれる。次に王となったシゲリックは有力貴族の支持を得て即位し、先代とは逆に反ローマの政策を志向してアタウルフの息子たちに死刑を言い渡したが、在位わずか7日で殺害された。シゲリックがローマに融和的に見えたことが死を招いたともいわれ、ワリアは、前任者たちが進めたローマとの和平交渉を打ち切ると期待されて王に選ばれたとされる。当時のゴート族にとって主な敵は、皇帝ホノリウスの軍司令官コンスタンティウスであった。
ワリアはまず、先々代の王アラリック1世がかつて企てたように、ジブラルタル海峡を渡ってアフリカへ向かおうとした。しかし船団は海峡で損害を受けて挫折し、これが和平を求める契機になったとされる。416年、ワリアはローマと条約を結び、60万モディイの穀物を受け取る代わりに、ホノリウスの姉妹でアタウルフの未亡人であるガッラ・プラキディアを返還し、イベリア半島でローマに敵対するヴァンダル族、アラン人、スエビ族と戦うことを約束した。条約の条件はローマ側に有利だったとされ、ガッラ・プラキディアの返還を確保したコンスタンティウスは、これによって皇帝の一族に近づく道を得たと評される。
条約に従い、ワリアはガッラ・プラキディアをローマへ送り返し、ローマの同盟軍として戦った。シリンジイ系のヴァンダル族を攻撃してほとんど撃滅し、生き残りはハスディンジイ系のヴァンダル族のもとへ逃れて保護を受けた。続いてアラン人も攻撃してほとんど滅ぼし、残った勢力はやはりハスディンジイ系ヴァンダル族に合流した。417年から418年にかけての戦いでは、アラン人の王アッダクスも殺されたという。年代記作者ヒュダティウスは、ワリアがローマの名のもとにイベリアの異民族へ大きな殺戮を加えたと記した。
418年、西ゴート族はガリアに呼び戻された。コンスタンティウスがその成功を警戒したためだとする見方もあるが、理由ははっきりしない。ゴート族はガリア・アクィタニア、ノウェンポプラナ、ガリア・ナルボネンシスへの定住を認められ、都はトロサとされた。割り当てられたのはトゥールーズからボルドーに至るガロンヌ川流域と、ピレネー山麓から北のロワール川に及ぶ大西洋沿岸の帯状の地域だったとされる。移住はおおむね平和裏に行われた。ローマ人の土地所有権をめぐる問題は、所有権と徴税権を切り離して解決され、租税の三分の二が軍事費として西ゴート族に、三分の一が内政のためローマ人に納められ、土地の三分の一はゴート族の客人の居住地として明け渡すこととされた。
新しい王国を整えている途上の418年、ワリアはトロサで急死した。後を継いだのはテオドリック1世である。娘(姉妹とも)の子であるリキメルは、約40年後に西ローマ帝国のマギステル・ミリトゥムとなり、帝国の実権を握った。また、ワリアは伝説上のアキテーヌのワルターのモデルではないかと推測されることもある。
同じ年に亡くなった人物
- スーサのアブダス (418年)
- Attaces (418年)
- ゾシムス (ローマ教皇) (418年没)
- オロシウス (418年)
同じ地域に関係する人物
- フィリップ・アリエス (1984年没)
- Henri Anspach (1979年没)
- フランソワ・フュレ (1997年没)
- Maurice Larrouy (1968年没)
- ギィ・ラペビー (2010年没)