伝記
ディオスコロス2世は、アレクサンドリアの第31代教皇(総主教)で、聖マルコの座に就いた単性説(ミアフィジス派)の指導者である。「若き者」とも呼ばれる。在位は516年から517年までの約2年とされるが、511年とする説もあり、没年も517年とも518年ともいわれる。
先代はヨアンネス3世ニキオテスで、その死(516年5月22日)の後、アレクサンドリアの司教たちが聖職者や信徒と集まり、7月にディオスコロスを選んだとされる。修道士で、アレクサンドリア総主教ティモテオス2世アイルロスの甥であったといい、聖人伝や説教の著者として知られた。選出にあたっては、アレクサンドリアの有力者たちの選択によるもので、地元の聖職者の同意を欠いたため反発を呼んだ。そのためディオスコロスは使徒マルコの教会に退き、聖職者たちの求めで改めて叙階を受けたという。叙階にあたっては、皇帝ゼノンのヘノティコン(統一令)を、カルケドン公会議の決定を退けるものとして受け入れることも求められ、ディオスコロスはこれに応じた。就任後の盛大な礼拝の際には、事態に憤った民衆が当局の代表者に襲いかかったと伝えられる。
就任後まもなく最初の仕事として、アンティオキア総主教セウェロスへ書簡を送り、三位一体と受肉について自らの解釈を述べた。神の言葉は、あらゆる点で完全な人間の体に受肉してそれと結ばれ、分かたれぬ一致のうちに一人の子、一人のキリスト、一人の神となり、三位一体は受肉の前も後も一つであって、受肉によって何も付け加えられていない、という内容である。セウェロスはシリアにおける単性説の第一人者で、この書簡を喜んで読み、アンティオキアの主だった人々に知らせた。そして返書で、ニカイア公会議の318人の教父が定めた信仰と教会法から右にも左にもそれず、堅く守るよう励ました。返書が届くと、ディオスコロスは喜んで受け取り、説教壇から全員に聞こえるよう朗読させた。
皇帝アナスタシオス1世は、ディオスコロスと同時代の人で、非カルケドン派の教会を好んだ。ディオスコロスは前任者のヨアンネスと同じくカルケドン信条の堅い反対者であり、ヘノティコンを受け入れた人々との交わりを保ちつつ、カルケドン派に正式な破門を課すことはしなかった。こうして教会の平和を大きく保てたとされる。聖職者には、各地の町で信徒を牧し守るよう命じ、新しい教会の建築と維持にも心を配った。
ディオスコロスはコンスタンティノポリスで、正統信仰を支持する人々から、都に自分の教義を押しつけに来たのではないかと疑われ、攻撃を受けた。アレクサンドリアへ戻って間もなく世を去った。518年7月9日にはアナスタシオス1世が没してユスティヌス1世が即位している。コプト暦の記録では、聖マルコの座にあること2年3か月で、518年10月27日に安らかに世を去り、アレクサンドリアの聖マルコ教会に葬られたとされる。10月27日(コプト暦のパオピ月17日)が聖人として記念される日である。
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