伝記
エリウゲナは、9世紀の神学者・哲学者で、810年頃に生まれ877年頃に没したとされる。ヨハネス・スコトゥス、ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナとも呼ばれ、「エリウゲナ」は「アイルランド生まれ」を意味するあだ名で、自身も写本の一つでこの形を用いている。中世には「スコトゥス」がアイルランド人を指すラテン語だったので、名は「アイルランド生まれのゲール人ヨハネス」と訳せる。後代のスコットランドの哲学者ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスとは別人である。1976年から発行されたアイルランドの5ポンド紙幣には、その肖像が使われた。バートランド・ラッセルは彼を「9世紀で最も驚くべき人物」と呼んだ。
アイルランドで教育を受けたエリウゲナは、当時の西ヨーロッパでは珍しくギリシア語に精通していた。そのためギリシア語著作の翻訳で活躍して有名になった。845年ごろ、西フランク王国のシャルル2世(禿頭王)に招かれ、宮廷学校で教えることになった。アルクインの後を継いで宮廷学校の長となったともされ、彼のもとで学校は名声を博し、多くの学生が集まった。王からは寛大に遇されたという。フランク王国には少なくとも30年にわたり滞在して後進の育成にあたり、著作の多くはこの間に書かれたと考えられる。聖職者か俗人かは確かめられないが、当時の状況から聖職者で、おそらく修道士だったと思われる。
最初の著作は聖体に関する教説で、後世には伝わらなかった。聖体は単なる象徴や記念にすぎないと主張したと推測され、のちにトゥールのベレンガリウスが同じ主張で弾劾され、罰としてこの論文を公衆の面前で焼かされたという。同時代にエリウゲナの正統性が疑われた様子はなく、むしろランスの大司教ヒンクマールの依頼で、修道士ゴットシャルクの二重予定説に反駁した。この反駁のために書かれたのが現存する『予定論』である。ところが論調が極端だったため、かえって信仰の正統性を疑われた。フロリウスとプルデンティウスが問題を指摘し、855年のヴァレンスの教会会議と859年のラングレスの教会会議で断罪され、その方法論は「悪魔の発明」とまで批判された。
第二の業績は、シャルル2世の依頼による偽ディオニシオス・アレオパギタの著作のラテン語訳と注釈で、現代にも伝わる。ディオニシオスが西欧に紹介されたのはこれが最初で、以後の西欧神学に大きな影響を与えた。ただ、その汎神論的な性格のために評判を落とし、教皇ニコラウス1世は、自分の許可なく翻訳が出たことに腹を立て、シャルル2世にエリウゲナのローマ召喚と宮廷からの解雇を求めた。
主著『自然区分論』は、自然を四つに分ける。創造されず創造する自然(神)、創造され創造する自然(イデアなど)、創造され創造しない自然(世界、人間世界)、創造されず創造しない自然(神と一つになる被造物の完成状態)である。人間は精神世界と物質世界をつなぐ存在とされた。神と被造物を神秘的には同じ性質とする結論は汎神論と見なされ、1225年のセンスの教会会議で教皇ホノリウス3世に弾劾された。エリウゲナは、プラトンに遡る古代哲学を中世スコラ哲学に結びつけ、普遍論争を復活させるきっかけをつくった。晩年は不明で、882年にアルフレッド大王に招かれてオックスフォードへ行き、マームズベリの修道院長となり、生徒に鉄筆で刺し殺されたという後世の話もあるが、同時代の文書に裏づけはなく、別人との混同とも寓意ともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- シャルル2世 (西フランク王) (877年没)
- コンスタンティン1世 (スコットランド王) (877年(推定))
- イグナティオス (877年没)
- ジャヤーヴァルマン3世 (877年)
- ハールヴダン・ラグナルスソン (877年没)
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