HISTORICAL PERSON · 877年没

シャルル2世 (西フランク王)

西フランク王国の初代国王(在位843〜877年)。禿頭王と呼ばれる。ヴェルダン条約で西フランクを得て、メルセン条約でロタリンギア西部を獲得。875年に皇帝として戴冠したが、ノルマン人に苦しんだ。

生涯
877年没
死亡地
フランス共和国(サヴォワ県 / アヴリュー)
出生地
ドイツ連邦共和国(フランクフルト・アム・マイン)
出典
世界地図
フランス共和国(サヴォワ県)

伝記

シャルル2世は、西フランク王国の初代国王で、在位は843年から877年である。異名は禿頭王という。823年6月13日にフランクフルト・アム・マインで生まれ、877年10月6日に没した。ルイ敬虔王と二番目の妃ユーディトの子で、皇帝ロタール1世、アキテーヌ王ピピン1世、東フランク王ルートヴィヒ2世の異母弟にあたる。晩年にはイタリア王位も得て、875年にローマ皇帝となった。

兄たちがすでに成人し、それぞれ領地を与えられていた時期に生まれた。スペイン語版によれば、7歳のころ、ライヘナウ修道院の修道士ワラフリド・ストラボンに預けられ、9年間その教育を受けた。父帝は幼い息子に次々と領地を与え、829年にアレマニアの公、832年にはアキテーヌ王としたが、これは父を助けた異母兄ピピン1世の代わりであった。その後ピピンは復位している。ピピンが838年に死ぬとアキテーヌを得て、その相続人やアキテーヌの貴族の怒りを買った。839年にも父帝は西フランクの広い地域を与えている。こうした偏愛は、異母兄たちの不満を呼び、父帝の晩年の混乱の原因となった。

840年に父帝が崩御すると、ロタール1世、ルートヴィヒ2世、シャルル2世の三兄弟が領土をめぐって争った。シャルルは異母兄のルートヴィヒ2世と結んで長兄のロタール1世に対抗し、841年のフォントノワの戦いで勝った。842年にはストラスブールの誓いで同盟を固め、翌843年のヴェルダン条約で、ロタール1世が中部と皇帝位、ルートヴィヒ2世が東フランク、シャルルが西フランクを得た。しかし貴族勢力の統制に苦しみ、ノルマン人(ヴァイキング)の侵攻にも悩まされて、治世は多難を極めた。統治の初期には、845年にブルターニュ公ノミノエが建てたブルトン軍に敗れ、851年にもブルターニュ公エリスポエの軍に敗れて、ブルターニュの独立を認めた。

869年、甥のロタール2世が死ぬと、シャルルは同年9月9日にメッツのステファヌス教会でロタリンギア王として戴冠した。翌年、ルートヴィヒ2世が相続権を主張したため交渉し、870年のメルセン条約でロタリンギア西部とプロヴァンスを得た。875年に甥の皇帝ルートヴィヒ2世が死ぬとすぐイタリアに侵攻して併合し、教皇ヨハネス8世の支持を得て、同年のクリスマスにローマ皇帝として戴冠を受けた。

876年に兄のルートヴィヒ2世が崩御すると、領土拡大をもくろんでアーヘン、ケルンへ攻め入ったが、同年10月8日、アンデルナハの戦いでルートヴィヒ3世ら兄の子たちの連合軍に敗れた。翌877年、反対勢力の鎮圧のためイタリアへ入ったが、甥のカールマンの大軍が近づいたため撤退し、帰国の途中の10月6日にサヴォワで没した。跡は子のルイ2世(吃音王)が継いだ。842年にオルレアン伯ウードの娘エルマントルドと結婚して9人の子女をもうけ、870年にはヴィエンヌ伯ボソの妹リシルドと再婚した。没する少し前には、スペイン語版によればキエルジーの勅令に署名し、諸侯の位と伯の職の世襲を正式に認めたとされる。

「禿頭」というあだ名だが、頭髪が薄かったと示す史料はなく、同時代の敵対者が髪を揶揄した記録もない。祖父カール大帝に似ていたとされ、禿げてはいなかったとする研究者もいる。あだ名の由来にも諸説があり、いつから呼ばれたかもはっきりしない。スペイン語版は、867年から聖ドニ修道院の在俗院長であったシャルルが、教皇ヨハネス8世が教会を奉献した日に、教会への服従の印として頭を剃ったためとする説を伝える。

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