伝記
ポリュビオスは、古代ギリシアのメガロポリス出身の歴史家である。生年は紀元前200年ごろとも紀元前204年ごろともいわれ、没年は紀元前125年ごろとも紀元前118年以後ともされる。父リュコルタスはアカイア同盟の有力な政治家で、土地を持つ支配層の一員であり、のちに同盟の将軍職に就いた。ポリュビオスは若いころから父の使節旅行に同行し、最初の約30年のあいだにメガロポリスの政治や軍事を間近に見て、政治家としての経験を積んだ。乗馬や狩猟にも親しんだ。紀元前182年にはアカイア同盟の指導者ピロポイメンの遺骨の壺を運ぶ栄誉を与えられ、紀元前170年か169年には騎兵隊長に選ばれた。この役職は同盟で二番目の高位で、翌年以降の将軍職への道を開くことが多かった。
ところが第三次マケドニア戦争でアンティゴノス朝が最終的に敗れると、立場は一変した。ローマに対する忠誠を疑われた千人のアカイア人が、ポリュビオスも含めてローマとその周辺に抑留されたのである。父リュコルタスは、ペルセウスとの戦争の際に中立を唱えてローマの疑いを招いていた。紀元前167年にローマへ送られた人質の一人となったポリュビオスは、そこで17年間とどめ置かれた。しかし高い教養のゆえに名門の家に迎えられ、とくにマケドニアを征服したルキウス・アエミリウス・パウルスの家では、息子のファビウスとスキピオ・アエミリアヌスの教育を任された。スキピオとはのちまで親しい間柄が続き、いわゆるスキピオ・サークルの一員にも数えられる。
紀元前150年にアカイア人の人質は解放され、ポリュビオスも帰郷を許された。だが翌年にはスキピオ・アエミリアヌスとともにアフリカへ遠征し、紀元前146年のカルタゴ陥落に居合わせて、その様子をのちに記した。カルタゴ滅亡のあと、大西洋沿いのアフリカ沿岸やスペインを旅したとみられる。同じ年にコリントスが破壊されるとギリシアに戻り、ローマとの人脈を生かして現地の条件を和らげようとした。さらにギリシアの諸都市で新しい統治の形を整えるという難しい任務を負い、この職務で大きな評価を得た。
その後はローマに住んで歴史の著作を完成させ、ときに地中海沿岸を長く旅して史跡を直接確かめた。退役兵に聞き取りをして出来事の細部を明らかにし、記録文書にも接することができたらしい。晩年はよくわかっていないが、ヌマンティア戦争ではスキピオに従ってスペインへ赴き、軍事顧問を務めたとみられる。この戦争を扱った著作は失われた。ギリシアに多くの碑文や彫像が残ることから、のちにギリシアへ戻った可能性が高い。『歴史』に記された最後の出来事は、紀元前118年の南フランスでのドミティア街道の建設と思われる。偽ルキアノスの記述によれば、田舎から馬で上る途中で落馬し、その傷がもとで82歳で亡くなったとされ、これにも一定の根拠があるかもしれない。
主著『歴史』は全39巻で、紀元前264年ごろから紀元前146年までを扱い、ローマの地中海世界での台頭を軸に、イタリア、イベリア、ギリシア、シリア、エジプト、アフリカの出来事を詳しく記す。ポエニ戦争などの当時の状況を知るうえで第一級の史料であり、ヘレニズム期の歴史書として相当な分量が残る唯一の作品でもある。政体の循環を論じた政体循環論や混合政体の分析でも知られ、権力の分立や抑制と均衡についての議論は、モンテスキューやロック、アメリカ合衆国憲法の起草者たちに影響を与えたとされる。『ピロポイメン』『戦術論』『赤道地域の居住性について』『ヌマンティア戦争』も著したが、完全に失われた。
同じ年に亡くなった人物
- ガイウス・パピリウス・カルボ (紀元前119年没)
- ミトリダテス5世 (ポントス) (紀元前 119年)
- クリトラオス (紀元前119)
- ヒュプシクレス (紀元前119)
- ルキウス・コエリウス・アンティパテル (紀元前119)
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