伝記
クレアンテスは、古代ギリシア・ヘレニズム期の哲学者で、ストア派の二代目学頭である。生没年は紀元前331年頃から紀元前232年頃とされ、紀元前330年頃から紀元前230年頃とする説もある。著作に『ゼウスへの讃歌』がある。
出身は小アジアのトロアス地方にあるアッソスで、父はパニアスといい、若いころは拳闘家として成功していたと伝えられる。わずか4ドラクマを持ってアテナイに来て哲学を志し、最初は犬儒派のクラテスの講義を、のちにストア派のゼノンの講義を聴いた。生計のため、夜通し庭師のもとで水汲みをし、粉挽きもしたという。そのため「井戸の水汲み」というあだ名がついた。書板を買えないほど貧しい苦学生で、禁欲的な生活を送りながら学んだ。昼は哲学の学びに費やしながら目に見える収入がなかったため、アレオパゴスの法廷に生計の次第を問われた。示した労働の証拠に裁判官は感心し、10ミナを与えることを決めたが、ゼノンは受け取ることを許さなかった。同門の者たちには忍耐強さ、あるいは鈍さから「ろば」と呼ばれた。本人はこの名を喜び、ゼノンが背に載せるどんなものにも耐えられる強い背の意だと受け取ったともいわれる。
ゼノンのもとで19年間忠実に学び、紀元前263年(前262年とも)にゼノンが没すると、その高い人格が尊敬されて学頭の座を継いだ。学頭となってからも自分の手の労働で生計を立てた。門人には、のちに三代目学頭となるクリュシッポスや、マケドニア王アンティゴノス2世ゴナタスがいた。王からは3000ミナを受け取ったとされる。
思想の面では、クレアンテスはストア派の自然学に独自の貢献をした。物質を死んだ不活性なものとする考えから離れ、緊張(トノス)の理論を唱えて、ストア派の唯物論と汎神論を発展させた。魂は物質であり、その証拠として、体の性質だけでなく精神の能力も親から子へ伝わること、体を打てば魂が痛み、魂が不安にさいなまれると体にも影響が出ることを挙げた。太陽を神聖なものと見なしたとも伝わる。倫理では、快楽は善ではなく「自然に反する」ものだと主張した。愛や恐れや悲しみといった情念は、魂の強さを支える緊張を欠いた弱さだと考えた。人は一生、あるいはその大半を悪の中で歩み、徳に達するとしてもそれは晩年のことだ、とも述べている。ゼノンの「一貫して生きる」という人生の目的に「自然と」の語を加えたのも彼だとされる。著作は数十篇あるが、『ゼノンの自然学説について』『神々について』『哲学のすすめ』『友情について』『快楽について』などは題名と断片しか伝わらない。唯一まとまって残るのは、ストバイオスが伝える約40行の詩『ゼウスへの讃歌』で、ゼウスを唯一神的な存在とする宇宙観を説き、ゼウスを讃えることは理性ある者すべての最高の特権だと述べている。
晩年、危険な歯肉の腫れを治すために絶食した。治ったのちも、すでに死への道を半ば来たのだから引き返さないと言って絶食を続け、餓死したとされる。享年は99とも、ゼノンと同じともいわれるが、定かでない。後世、キケロからは「ストア派の父」と称された。ローマ元老院は生地アッソスに彼の像を建て、六世紀のシンプリキオスの時代にも像が見えたという。パウロが引用した「私たちもまたその子孫である」という格言は、一説に『ゼウスへの讃歌』からの引用とされる(アラトスからの引用とする説もある)。ルクレティウスの『事物の本性について』が讃歌の影響を受けたとする説もあり、ヒュームの対話篇ではクレアンテスが経験的な自然神学を説く。
同じ年に亡くなった人物
- プトレマイオス (エピロス王) (紀元前231年没)
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