伝記
ビンドゥサーラは、古代インドのマウリヤ朝の第2代の王である。在位は紀元前293年ごろから紀元前268年ごろとされ、漢字では頻頭娑羅と書く。ギリシア人の著作家はアミトロカテスと記した。この名は、サンスクリット語で「敵を殺す者」を意味する称号アミトラガータに由来するらしい。ギリシア人の著作家ストラボンはアッリトロカデス、アテナイオスはアミトロカテスと呼んだ。「神々に愛される者」を意味するデーヴァーナンプリヤの称号も持ち、これは後継者アショーカにも使われた。ジャイナ教の文献は、生まれたときの名をシンハセーナと伝える。
マウリヤ朝の創始者チャンドラグプタの息子として生まれ、のちのアショーカの父となった。ジャイナ教の伝説では、母はチャンドラグプタの王妃の一人ドゥルドハラーとされる。名の由来にも伝説がある。宰相チャナキヤは毒殺に備えて王の食事に少量の毒を混ぜていたが、王が事情を知らず身重の妃に食べ物を分け与えてしまった。ジャイナ教の伝承では、妃が倒れた瞬間にチャナキヤが部屋へ入り、亡き妃の腹から子を取り出した。そのとき毒の一滴が子の頭に触れていたので、「一滴の力」を意味するビンドゥサーラと名づけたという。仏教の伝承では、妃の出産の7日前に毒を口にし、チャナキヤが妃の首を切って子を取り出し、毎日殺したばかりの山羊の腹に7日間入れたとする。子の体に山羊の血の滴が点々とついていたので、この名がついたという。
彼の治世についての情報は乏しい。伝わる話の多くは、数百年後に書かれた伝説に基づく。父の時代の重鎮カウティリヤやカッラータカは引き続き要職にあり、政策は父王のものを受け継いだといわれる。後世の仏教徒ターラナータは、家臣のチャナカが16か国の王を滅ぼし、東西の海の間、すなわちデカン高原をマウリヤ朝の支配下に置いたと伝える。しかし、これは実際には父王の時代に征服した土地で起きた反乱の鎮圧だったとする説もある。またカリンガ国は服属させていなかった。
北の国境ではセレウコス1世との友好関係を保ち、遠く地中海のヘレニズム諸国とも交わった記録がある。紀元前281年にセレウコス1世が死んでアンティオコス1世ソテルが即位すると、使者デイマコスをビンドゥサーラのもとへ送り、上等な葡萄酒と干したイチジク、それにソフィストを売ってほしいと頼んだ。ビンドゥサーラは葡萄酒とイチジクの売却には応じたが、ソフィストの売却は拒んだ。プトレマイオス朝の使者ディオニシオスがインドに来たのも、この王の治世か、息子アショーカの治世と考えられている。父がジャイナ教を熱心に信仰したのに対し、ビンドゥサーラはアージーヴィカ教の信者であったと伝えられる。
晩年と死をめぐっては、アショーカにまつわる伝説が多い。ある伝説では、剃毛師を務めていたチャンパー出身のバラモンの娘が正妃となり、アショーカとヴィータショーカを産んだ。ビンドゥサーラはアショーカと不和で、軍を与えずにタクシラの反乱の鎮圧を命じたが、アショーカは神々から軍を与えられ、人々は彼に服したという。別の伝説では、病に倒れた王が長男スシーマを後継者にするよう遺言したのに、アショーカがスシーマを倒し、兄弟の多くを殺して王座を奪ったともいわれる。これには後代の誇張があるが、即位時の混乱は多くの伝説が伝えている。ビンドゥサーラは紀元前268年(一説には紀元前272年)に死去し、何人かの王子が王位を争った末にアショーカが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ピュロス (紀元前272年没)
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