伝記
ピュロスは、古代ギリシアのエピロス王で、のちにマケドニア王にもなった人物である。紀元前319年ごろに生まれ、前272年に没した。ピュッロスやピュロス1世とも表記され、戦術の天才として名高い。エピロス王家のアイアキデスと、テッサリアの将軍メノンの娘プティアの間に生まれ、姉妹にデイダメイアとトロアスがいた。ピュロスは自らをアキレウスの子孫と称したとされる。
父アイアキデスがディアドコイ戦争で国を離れたとき、エピロスで反乱が起こり、当時2歳だったピュロスはイリュリアへ逃れた。前307年、イリュリア王グラウキアスの支援でエピロスの王位に就いたが、まだ十代前半で、成人するまでは後見人が政治を執った。17歳のとき、グラウキアスの子の結婚式に出るため国を離れた隙に再び反乱が起こり、王位を追われた。彼は姉デイダメイアの夫であるデメトリオス1世を頼り、前302年ごろ、小アジアへ向かうデメトリオスの軍に従ってイプソスの戦いに参加した。勇名を馳せたものの、軍は大敗し、彼はデメトリオスとプトレマイオス1世の条約によってプトレマイオスのもとで人質となる。そこでプトレマイオスの継娘アンティゴネと結婚し、その支援で前297年にエピロス王へ返り咲いた。その後、かつての盟友デメトリオスと戦い、約10年でこれを追ってマケドニア王の座に就いたが、2年後には同盟者だったはずのトラキア王リュシマコスにマケドニアを追われた。
前280年、イタリア半島南部の都市国家タラスが新興国ローマと争うと、常備兵力に乏しいタラスは、すでに武将として名を上げていたピュロスを莫大な報酬で雇い入れた。ピュロスはローマ軍の陣形を見て「あの蛮族は陣形を見る限り野蛮ではないようだ」と評したという。ヘラクレアの戦い(前280年)とアスクルムの戦い(前279年)で勝利を収めたが、遠征軍は戦うごとに数を減らし、ローマも講和に応じなかった。勝利を喜ぶ部下に、もう一度勝てば我々は壊滅すると語ったとされ、割に合わない勝利を「ピュロスの勝利」と呼ぶ由来になった。講和のときには、身代金を持ってきたローマの使者に「私は商売に来たのではない。戦場で決着をつけよう」と答え、捕虜を無償で返したという逸話がある。侍医の毒殺の申し出をローマが彼に知らせたので、彼が感謝して再び捕虜を返し、ローマもそれに応じたともいう。
やがてシチリアの諸都市からカルタゴを追い払うよう求められ、ローマの前を去った。シチリアで彼は最大の要塞都市エリュクスを陥落させたが、カルタゴがシチリアから完全に手を引くことを求め続けたうえ、専制的に振る舞ったため諸都市の反感を買い、支援を失ってタラスへ退いた。前275年のベネウェントゥムの戦いでローマ軍に敗れてエピロスへ帰り、その後マケドニアへ攻め入ってアンティゴノス2世を追い、再び王位に就いた。しかしスパルタの王族の求めでペロポネソス半島へ遠征すると、留守を突いてアンティゴノスにマケドニアを脅かされ、スパルタ軍にも苦戦して撤退した。次にアルゴスの政争に介入し、前272年、市街戦のさなかに名もない女性に瓦を落とされて気絶し、殺されたと伝わる。使用人に毒殺されたとする説もある。
彼はアレクサンドロス大王の戦術の後継者と評され、宿営地の建設の重要さを最初に理解した人物ともされる。文才もあって著書を残したが、今は失われ、その内容はキケロが賞賛している。ハンニバルはスキピオ・アフリカヌスに「史上最も偉大な指揮官」を問われて、第1にアレクサンドロス、第2にピュロス、第3に自分だと答えたと、リウィウスが伝えている。
同じ年に亡くなった人物
- ビンドゥサーラ (紀元前 272年)
同じ地域に関係する人物
- クレオンブロトス (摂政) (紀元前479年没)
- アギス3世 (紀元前331年没)
- コスタス・カリオタキス (1928年没)
- アナクサンドリデス (スパルタ王) (紀元前525年没)
- ロベール1世 (ラテン皇帝) (1228年没)