伝記
エウドクソスは、紀元前4世紀の古代ギリシアの数学者・天文学者で、小アジアのクニドスの出身である。哲学者・医者としても数えられ、プラトンの弟子とされることもある。エジプトで長く暮らし、のちにアテネに移ったともいう。著作は現存せず、その仕事は後世の学者の引用によって知られる。生没年は定まっておらず、伝統的な年代は誤りとされる。プラトンの死(紀元前348年から347年)に触れた著作があるため、それより長く生きたと考えられ、誕生は紀元前397年から390年ごろ、死は紀元前345年から338年ごろと見られている。
出自は慎ましかったとされる。故郷のクニドスは、コスと並ぶ医学の学校で知られた町である。数学をタラスのアルキュタスらに学んだと伝わるが、その伝承には疑問が出されており、シチリアへの旅も信じがたいとされる。23歳ごろにアテネへ出て、ソクラテスの流れをくむ人々の評判に引かれて滞在したが、最初の滞在はわずか2か月で、このころプラトンと出会ったらしい。ディオゲネス・ラエルティオスによると、プラトンは当初弟子入りを断ったというが、別の報告ではプラトンの講義を聴けたとされる。その後、スパルタ王アゲシラオス2世の推薦状を携え、紀元前365年から364年ごろ、医者のクリュシッポスとともにエジプトへ渡った。滞在は16か月に及び、ファラオのネクタネボ1世のもとで、ヘリオポリスの神官たちから天文学を学んだという。
帰国後は、マルマラ海南岸のキュジコスに哲学・数学・天文学の学校を開き、小アジアの他の町でも教えた。ペルシアの太守マウソロスのもとも訪れている。のちに多くの弟子を連れてアテネへ移り、プラトンのアカデメイアと近い関係にあったと見られる。プラトンとの間柄は、人気に嫉妬して冷たく迎えられたという伝えや、数学上の考えを警戒されたという伝え、友好的だったという伝えに分かれ、はっきりしない。アリストテレスのアカデメイア入りは「エウドクソスのもとで」と伝えられるが、エウドクソスが学頭代理を務めたという古い解釈は、当時まだ若かったことから成り立たないとされる。紀元前350年ごろにはクニドスに戻り、民主制が成立したばかりの故郷で、新しい国制の起草を任された。フィロストラトスは、言葉の飾りと即興の巧みさから、彼を『ソフィスト列伝』に入れている。最後は生まれ故郷のクニドスで亡くなったという。
数学では、円錐の体積が、同じ半径と高さの円柱の体積の3分の1になることを証明した。これらの成果は、ユークリッドの『原論』に収められた。
天文学では、地球を球形とし、地球を中心に他の天体がめぐるという天動説の立場をとった。星々はそれぞれ透明な球に付着し、球は地球を中心に一定の速さで回り続けるという同心球モデルである。これにより惑星の逆行をおおまかに説明したが、定量的な予測には至らなかった。天球を緯度と経度で区分したともされる。この説はアリストテレスの宇宙論に取り入れられた。のちのヒッパルコスやプトレマイオスは、周転円やエカントによる別の理論で精度の高い予測に成功したが、エカントを実現する物理的な仕組みは誰にも想像がつかなかった。そのため、同心球モデルを改良してプトレマイオスの理論を置き換えようとする動きが何度かあり、12世紀にイスラム圏のスペインで起こった一連の研究は、ヘブライ語やラテン語にも翻訳された。
同じ年に亡くなった人物
- カリストラトス (紀元前 354年)
- シュラクサイのディオン (紀元前354年没)
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