伝記
シュラクサイのディオンは、紀元前408年に生まれ、紀元前354年に没したシュラクサイの政治家である。ヒッパリノスの子で、姉アリストマケは僭主ディオニュシオス1世の妻であり、ディオン自身もディオニュシオス1世の娘アレテと結婚していた。知恵を買われて僭主に重んじられ、気位が高く男らしい性格で、富と名声においてシュラクサイで傑出した人物であった。哲学者プラトンの弟子でもあり、プラトンの『第七書簡』にはその交友の詳細が書かれている。
紀元前388年、ディオンはプラトンを呼び寄せ、ディオニュシオス1世を感化して賢君にしようとした。僭主は最初この哲学者を敬ったが、最も勇気がないのは独裁者だというプラトンの説を聞くと、自分が非難されていると感じ、プラトンをギリシアへ送る提督ポリスに奴隷に売るか殺すよう求めた。プラトンはアイギナで奴隷に売られたという。紀元前367年にディオニュシオス1世が死に、息子のディオニュシオス2世が僭主となると、ディオンはカルタゴの脅威に対する方策を進言した。しかし廷臣たちは嫉妬して、ディオンが僭主の座をねらっていると讒言し、酒色に溺れる僭主は、遊びに加わらないディオンを疎んじた。ディオン自身にも尊大で近づきがたい性格があったと伝えられる。
ディオンはディオニュシオス2世の性格を正そうとしてプラトンを再び招いたが、反対派は、先代に追放されていた僭主制の支持者ピリストスを呼び戻して対抗させた。ディオンがカルタゴに宛てた手紙が僭主の知るところとなり、またピリストスがプラトンの民主政の勧めに反対したこともあって、僭主はディオンを追放した。ディオンはアテナイでアカデメイアの哲学者たちと交わり、各地で歓待され、スパルタは彼に市民権を授けた。その後、僭主はディオンの領地を売り払い、ディオンの妻アレテを親衛隊長ティモクラテスに嫁がせた。ディオンはこれに憤慨して僭主の打倒を決意し、傭兵を集めた。プラトンの甥スペウシッポスらアカデメイアの人々も計画に協力した。紀元前357年にザキュントス島に集まったのは、僭主による追放者25人と傭兵800人にすぎず、誰もが無謀な企てと見ていた。
一行は風に流されてアフリカに着いたのち、シケリアに渡った。シュラクサイへ進む途中で各地から人が加わり、兵力は2万にふくれあがった。上陸から2日目にディオンが入城すると、留守を預かっていたティモクラテスは逃げ、市民は熱烈に迎えて、ディオンと弟メガクレスを全権将軍に任じた。戻ってきたディオニュシオス2世はアクロポリスに籠城して策略をめぐらしたが、攻撃は退けられた。ピリストスは海戦に敗れて自害した。僭主はやがて息子アポロクラテスに城を託して脱出した。
しかし、味方のなかにも敵があった。艦隊を率いて来たヘラクレイデスはディオンへの支持の低下に乗じ、民衆に傭兵への給与停止と将軍の入れ替えを議決させ、ディオンはいったんレオンティノイへ退いた。やがてニュプシオスの攻撃に苦しんだシュラクサイ人が助けを求めると、ディオンは救援に赴いて勝利し、罰を覚悟して身を差し出したヘラクレイデスをも許した。それでもヘラクレイデスが反対を続けたため、ついに部下に殺させた。この暗殺は人々にディオンへの恐れと不信を植えつけ、傭兵の指揮官カリッポスはそこにつけこんで支配権の奪取をねらった。ディオンはその偽りの献策を信じ、真意に気づいた妻と姉の忠告にも耳を貸さなかった。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
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- ミヒール・デ・ロイテル (1676年没)
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- Katerina Vitale (1619年没)
- シラクサのルチア (304年没)