伝記
アナクレオンは、古代ギリシアの抒情詩人である。酒と頌歌で名高く、のちに九人の歌唱詩人に加えられた。生没年には諸説があり、紀元前582年頃に生まれ紀元前485年頃に没したとも、紀元前563年に生まれ紀元前478年に没したともいわれる。生涯については、詩の断片と後世の引用のほかに手がかりが乏しく、実像は定かでない。
小アジアの海沿いのイオニアの都市テオスに生まれた。父については議論があり、スキュティアノス、エウメロス、パルテニオス、アリストクリトスの四つの名が候補にあがる。当時、キュロス2世の将軍ハルパゴスが小アジアのギリシア都市を包囲していた。アナクレオンは降伏を避けて街の人々とともにトラキアの沿岸、メスタ川の河口近くに逃れ、植民地アブデラを建設したと思われている。テオスは、ペルシアの侵入を防ぐために結ばれた十二都市のイオニア同盟に属していたが、紀元前546年にペルシアに征服され、それを機に新しく建設されたアブデラへ移ったともいう。
その後は各地を旅しながら詩人としての経歴を重ね、生涯の多くを僭主たちの宮廷で過ごしたと伝えられる。僭主は芸術や文学の重要な庇護者だった。最初の庇護者はサモスのポリュクラテスだったとされる。ポリュクラテスがペルシア人に殺されると、アナクレオンはアテナイに移り、僭主ペイシストラトスの子ヒッパルコスの庇護のもとで詩を作った。この移住はプラトンの著作にも見える。父子は貴族の市民意識を広げ、ホメロスの時代の貴族の理想を再現したとされ、アナクレオンは酒宴やパンアテナイア祭のような競技で詩を披露し、イオニアの抒情詩をアテナイに伝えたとみられる。アテナイでは大いに人気を得て、同時代の詩人シモニデスと親しくなった可能性がある。アテナイでは長く知られ、ペリクレスの父クサンティッポスとともにアクロポリスに像が建てられた。アテナイを去ったのちテッサリアへ移った可能性もある。故郷のテオスで死んだと考えられているが、これも確かではない。
アナクレオンは古代イオニア方言で詩を作った。初期の抒情詩のつねとして、作品は竪琴の音楽に合わせて歌われ、とくに独唱歌が多い。作品は恋と酒、饗宴の楽しみを中心とし、ホメロスの叙事詩的な主題からは距離を置いた。恋を穏やかで幻想的なものとして扱い、エロスの像にたびたび訴えた。パウサニアスは、サッポーののちに恋の歌を主として作った最初の詩人だと述べている。残っている断片には歌われる詩(メリック)に属するものが多く、エレゲイアは少ない。軽やかな詩も真面目な詩もあり、簡素ながら工夫のある韻律で、快楽と皮肉を伝えた。完全な形で伝わる断片373は、薄い菓子の一切れと壺一杯の酒を夕食にして、いま愛らしい竪琴を優しく奏で、優しい娘にセレナードを捧げると歌う詩で、恋と宴を気楽に楽しむ姿勢をよく示している。彼の詩は、饗宴の理想と結びついたディオニュソスとアフロディテの世界に連なる。研究の難しさは、断片的であるうえに、曖昧で解釈に迷う点にもある。
死後も、彼の人気は長く続いた。アナクレオンの様式は古代を通じて追随者に模倣され、その人々はアナクレオン派と呼ばれた。職人たちは、酒宴や恋の主題と彼を結びつけ、壺や陶器に描いたらしい。テオスの貨幣には、竪琴を持った立像や座像が描かれている。1835年にサビーニ地区で見つかった大理石像はアナクレオンのものだといわれ、現在はボルゲーゼ公園にある。