HISTORICAL PERSON · 紀元前 500年(推定)没

阿難

釈迦の十大弟子の一人で、釈迦の侍者として常に説法を聞いたため多聞第一と称された。禅宗では摩訶迦葉の跡を継ぐ第3祖とされる。

生涯
紀元前 500年(推定)没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

阿難(アーナンダ)は、釈迦の十大弟子の一人であり、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから「多聞第一」と称せられた人物である。漢語では阿難陀とも書き、意訳では歓喜・慶喜とも記される。禅宗では、摩訶迦葉の跡を継ぐ付法蔵の第3祖とされる。生没年ははっきりせず、没年は紀元前500年ごろと推定されている。名前の似た孫陀羅難陀とはよく混同されるが、別人である。仏典には「難陀」と付く名の人物が数多く登場するため、混同が起こりやすい。

出身は仏典によって一致しないが、一般には釈迦の従弟で、のちに教団に背いた提婆達多の弟といわれる。父については、斛飯王とする説、白飯王とする説、甘露飯王とする説があり、兄弟の順序も伝承ごとに異なる。釈迦が悟りを開いた夜に生まれたとされ、『大智度論』によれば、誕生の知らせを受けた釈迦の父、浄飯王が非常に喜んだので「歓喜」を意味するアーナンダと名づけられたという。国民が皆喜んだことによる命名ともいわれる。阿那律ら諸王子とともに釈迦のもとへ赴いて弟子となった。そのとき釈迦は55歳、阿難は25歳といわれるが、8歳で年少の修行者になったとする説もある。『仏本行集経』には、阿難と提婆達多の2人だけが、釈迦の許しを得ずに雪山のふもとの長老、優波陀について出家し、具足戒を受けたとある。美男子であったため女性に関わる難にたびたびあったといわれるが、志を堅く守って修行を全うしたという。

出家後は釈迦が亡くなるまでの25年間、常にそばに仕えて身の回りの世話をした。そのため誰よりも多くの教えを聞いてよく記憶しており、これが多聞第一と呼ばれる理由である。釈迦の養母、摩訶波闍波提たちが出家を望んだとき、釈迦はなかなか女人の出家を認めなかったが、阿難が説得して認めさせたことは特筆される。ただし、この逸話は原始仏典との矛盾が多く、後世に付け加えられた可能性が高いと植木雅俊は主張している。一方で、智慧にすぐれ多くの経を暗誦していたものの、心を集中させる点に欠け、釈迦の入滅のときにはまだ阿羅漢果を得ていなかったといわれる。入滅の前後には悲しみのあまり慟哭し、阿那律にたしなめられたと伝わる。

釈迦の没後、王舎城の七葉窟で第1回の仏典結集が行われた。結集への参加資格は阿羅漢果を得ていることであり、後継者の摩訶迦葉は当初、阿難の参加を認めなかった。阿難は熱心に瞑想を続け、疲れて寝具に倒れ込んだ拍子に忽然と悟り、結集当日の朝に阿羅漢果に達したという。こうして参加した阿難は、記憶に基づいて釈迦の教えを口述し、仏典が編まれたとされる。漢訳仏典の冒頭にある「如是我聞」の「我」は、多くが阿難を指すという。いっぽう、戒律の細部は覚えておらず、なぜ釈迦に細かい点を尋ねなかったのかと、摩訶迦葉や他の弟子たちに責められたという話も残る。

晩年については、マガダ国やヴェーサリーの離車族の人々から厚く信頼されていたといい、自分の死後に遺骨が奪い合われることを憂えたと伝えられる。ガンジス河の中洲で、マガダ国の阿闍世王と離車族がやって来るのを待ち、舟の中から空中に上って火光三昧に入り、120歳で没した。遺骨は二つに分けられて両岸に落ち、各国の王がそれを奉じて塔を建てたという伝説がある。チベット仏教では、グル・パドマサンバヴァに授戒した師としても知られる。手塚治虫の『ブッダ』や『聖☆おにいさん』などにも登場している。『西遊記』にも釈迦如来の弟子として迦葉とともに登場する。

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