伝記
アルカイオスは、古代ギリシアの抒情詩人である。ミュティレーネーのアルカイオスと呼ばれ、生まれは紀元前620年頃とされる。いつ死んだかは不明である。アルカイオス風韻文の創案者と考えられており、サッポーよりやや年上で、詩を交換するなど恋愛関係にあったのではないかとも言われる。
レスボス島の主要都市ミュティレーネーの、支配階級である武人貴族の家に生まれた。この都市は紀元前7世紀の終わりには北エーゲ海のギリシア都市の中で最も影響力が強く、強力な海軍と、交易路を守る植民地をもっていた。長く王家のペンティリダイ氏が治めていたが、詩人の時代にはその力は衰え、対立する貴族の派閥が最高権力を争っていた。アルカイオスは兄たちとともにこの争いに情熱的に関わったが、ほとんど成功しなかった。
政争は、順に現れた三人の権力者をめぐって展開した。まず貴族メランクロスが紀元前612年から609年のあいだに、アルカイオスの兄弟たちやピッタコスを含む一派に倒された。ピッタコスは後にギリシアの七賢人の一人として知られる人物で、当時アルカイオスはまだ若く、積極的には関わっていなかった。メランクロスの失脚で勢力を強めた僭主ミュルシロスに対しては、アルカイオスも兄弟やピッタコスとともに陰謀に加わったが、成功しなかった。ピッタコスは後にミュルシロスと手を結び、アルカイオスは亡命した。亡命中のアルカイオスは、僭主の死の知らせを祝う酒宴の歌を詠んでいる。ミュルシロスの死後、アルカイオスはピッタコスと和解したらしく、ミュティレーネーに戻ったが、この新しい連帯は長続きせず、再び亡命を余儀なくされ、遙かエジプトまで逃げた。ピッタコスは市民の集会から最高権力を与えられ、紀元前590年から580年にかけて、うまく統治したようで、アルカイオスの一派が平和に帰国することも許した。アルカイオスは最終的にレスボス島に戻ったと言われる。兄弟の一人は傭兵としてバビロニア軍に入り、ネブカドネザル2世のもとで戦った。
トロイに近いシゲイオンをめぐってミュティレーネーがアテナイと争ったときには、アルカイオスも戦列に加わった。ヘロドトスによれば、アルカイオスは勝ったアテナイ軍から逃れるために盾を投げ捨て、その出来事を詩に詠み、友人のメラニッポスに送ったという。
作品は、戦争や政治の体験を反映したものが断然多く、荒海で沈みゆく船から生き延びようとする必死の努力、兜と槍の光景、戦争から帰還した兄弟を迎える安堵、暴君への罵りなどがうたわれている。一方で、祝宴、賭け事、友情、海の荒っぽい生活をいきいきとたたえ、愛する少年への愛の詩や飲酒の詩も作った。これらは饗宴で朗唱される類の詩であった。神々への讃歌も作っている。アルカイオスはサッポー、アナクレオンとともに、友人たちのために自ら作って演じる独唱詩人に分類される。母語であるアイオリス方言で、短く韻律の単純な詩節を繰り返し用いて詩を書き、この形式が「アルカイオス風」の詩節として名を残した。サッポーとは同じミュティレーネーの友人たちのために詩を作っていたため、島の連合を祝う年一度の祭りカリステイアなどで顔を合わせる機会が多かったとされる。ヘレニズム期のアレクサンドリアで詩が編纂されたとき、10巻分あったと記録されている。アレクサンドリアの学者たちは彼を、ムーサ一人につき一人の抒情詩人という正典の九人に数えた。現存するのは断片のみだが、アルカイオスを最良の手本と考えたローマの詩人ホラティウスの模倣作が、その特徴を理解する助けとなっている。
同じ年に亡くなった人物
- カンビュセス1世 (紀元前559年没)
- クレオブロス (紀元前 559年)
- Themistoclea (紀元前559)
- アメル・マルドゥク (紀元前 559年)
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