HISTORICAL PERSON · 紀元前 600年(推定)没

トミュリス

紀元前530年頃の中央アジアのマッサゲタイ族の女王。ヘロドトスは、侵攻してきたペルシア王キュロス2世の軍を破り、キュロスを殺害したと記している。

生涯
紀元前 600年(推定)没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

トミュリスは、紀元前530年頃の人物で、中央アジアのカスピ海東岸に勢力を持っていたマッサゲタイ族の女王である。マッサゲタイ族はイラン系の遊牧民で、スキタイ人の連合に属する民ともいわれる。ギリシア語ではトミュリスと呼ばれるが、名前そのものはイランに起源を持つとされ、ペルシア語ではタフマライーシュと記される。ヘロドトスは、彼らがカスピ海の東に広がる平原の大半を占め、アラクセス川の北に住む数多く強力な民で、イセドネス族の隣人だったと述べている。アラクセスは現在コーカサスを流れるアラス川を指すが、近代の研究者はアムダリヤかシルダリヤのことだろうと考えている。トミュリスは、アケメネス朝ペルシアの創始者キュロス2世を破って命を奪った女王として知られる。

この女王について最初に書いたのは、ギリシアの歴史家ヘロドトスである。ヘロドトスは彼女が生きた時代より約100年後の人物で、その『歴史』が後のストラボンらギリシア・ローマの著作家たちの記述の土台になった。トミュリスの生涯はそれ以前の出自も含めてほとんど分からず、語られるのは、ほぼ最期のキュロスとの戦いに関する話である。

ヘロドトスによれば、立ち向かった敵をすべて倒して自らを不死身で不敗と感じていたキュロスは、かねてからマッサゲタイ族の征服を望んでいた。ちょうどそのころ、マッサゲタイの王が死に、その寡婦であるトミュリスが跡を継いだ。キュロスは結婚を申し込むふりをして使者を送ったが、トミュリスは相手が求めているのは自分ではなく国だと見抜いて退けた。そこでキュロスはアラクセス川へ軍を進め、川に橋を架け、舟橋の上に塔を築いて戦いの支度をした。その際、キュロスが滅ぼしたリュディア王国の最後の王で、臣下となっていたクロイソスが献策したという。

最初の戦いでは、ペルシア軍が計略を用いた。豪華な食事と酔いを誘うもの、それに雌馬の乳を戦場に置いてマッサゲタイ兵に飲み食いさせたのである。貧しかったマッサゲタイ軍は見事にこれにはまり、酔ったところをペルシア軍に一方的に討たれた。女王の息子スパルガピセスは捕虜となり、のちにそれを恥じて自ら命を絶った。

欺かれて息子を失ったことを知ったトミュリスは、あらためてキュロスに戦いを挑んだ。激戦の末にマッサゲタイ軍がペルシア軍を打ち破り、キュロスは戦死した。トミュリスはその遺体を見つけて首を落とし、「私は生き永らえて戦いではそなたに勝ったが、わが子を謀略にかけて捕らえたそなたの勝ちであった。さあ約束どおり、そなたを血に飽かせてやろう」と語ったと伝えられる。キュロスの死は紀元前530年の夏とされる。なお、キュロスはデルビケス人に殺されたと伝える文献もあり、近代の歴史家はこれをマッサゲタイの別名か、その部族連合の一部とみている。この物語は伝説となり、ストラボンやポリュアイノス、カッシオドルス、ヨルダネスらも記している。ローマの時代には、マッサゲタイをスキタイと同じ意味で呼ぶ著作家も多かった。ラテン語ではタミュリスなどとも綴られた。のちにはルーベンスやギュスターヴ・モローなど西洋の画家たちが題材にした。スキタイ系の諸民族には、戦いの技を身につけた勇敢な女性を育てる風習があり、女王も少なくなかったと古代の著作家たちは伝えている。現代でも、カザフスタンで2019年に作られた映像作品や、ゲーム『シヴィライゼーションVI』にスキタイ文明の指導者として登場している。

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