伝記
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、第2代の「プロイセンにおける王」である。1688年8月14日に、のちの初代国王フリードリヒ1世となるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世と、ゾフィー・シャルロッテの子として生まれた。粗暴で無教養だったが、財政と軍制の改革でブランデンブルク=プロイセンの強大化に努め、兵隊王とあだ名された。1689年から1692年まで祖母のハノーファー選帝侯妃ゾフィーに育てられ、その後はドーナ城伯アレクサンダーやユグノーの人々に教育された。1698年の10歳の誕生日に父から荘園を贈られ、1701年の父の即位でオラーニエン公となった。1706年11月28日、母方の伯父ゲオルク1世の娘で従姉のゾフィー・ドロテアと結婚し、14人の子をもうけた。当時の君主に多い多情とは無縁だったとされる。
1713年2月25日に父が没して即位した。父の浪費でプロイセンは破産寸前であり、新王は軍事と財政の全般にわたる改革に乗り出した。国政の合理化と単純化に取り組み、経済力のある市民の受け入れを促した。ペストで人口が減った東プロイセンには、迫害されたフランスのユグノーを誘致し、1732年にはザルツブルク大司教領から2万人以上の新教徒の難民が移住して、荒廃した土地に活気が戻った。1713年の官営紡績工場の設立、1717年のハーフェル川流域の沼沢地の干拓、1727年のベルリンの施療院の設立も業績に数えられる。御料地の税収を強化して軍事費にあて、兵糧の調達も整備し、軍事に特化した中央集権化を進めた。
軍制改革ではカントン制度を設け、地域別の連隊に人員を安定して供給した。長身の兵を偏愛し、そうした兵だけを選んだポツダム巨人軍と呼ばれる近衛連隊を作ったことは有名である。徴兵官は誘拐や大金で長身の男を集め、スコットランド人もいた。維持費は多額で兵力としての長所は乏しく、息子のフリードリヒ2世の即位後に大半が解散された。軍を育てながら実戦はほとんどなく、参加した戦争は大北方戦争のみである。1714年から実質的に参戦してスウェーデンと戦い、1720年のストックホルム条約で前ポンメルン、シュテッティン、ウーゼドム島を得て、バルト海地域の勢力図を塗り替えた。
他方で、王は臣下の生活にまで干渉した。物売り女は暇なとき糸を紡げといった勅令を出し、自ら見回って違反者を杖で打った。恐れて逃げた男を捕まえ、「お前たちは私を好きになるんだ」と打ったという逸話もある。ひどく吝嗇でもあり、宮廷の食事の質素さに外国の使節が驚いた。王太子フリードリヒとは深刻に対立し、芸術を禁じて蔵書を取り上げた。これが逃亡未遂と幽閉を招き、逃亡を手助けしたカッテの裁判では、無期懲役の判決を不服として控訴し、判事を脅して死刑判決を出させた。しかし晩年に父子は和解し、王は息子に統治の能力が備わっていると信頼を示した。1739年に東プロイセンを巡幸した後、持病の水腫が悪化して、1740年5月31日に没した。他国が驚くほどの軍事力を備えながら国庫には貯蓄が残った。フリードリヒ2世は父を、小事を扱うことが大をなすと確信していた人だと評している。この改革は、息子の覇業を支える土台となったと語られる。
同じ年に亡くなった人物
- フサイン1世 (1740年)
- タフマースブ2世 (1740年没)
- アンナ (ロシア皇帝) (1740年没)
- カール6世 (神聖ローマ皇帝) (1740年没)
- ヤン・クペツキー (1740年没)
同じ地域に関係する人物
- エミーリエ・シンドラー (2001年没)
- シルビオ・ゲゼル (1930年没)
- ハンス・ガイガー (1945年没)
- エドガー・ユリウス・ユング (1934年没)
- ハインリヒ・フォン・プロイセン (1726-1802) (1802年没)