HISTORICAL PERSON · 1945年没

ハンス・ガイガー

ドイツの物理学者。放射線を測るガイガー=ミュラー計数管の発明や、原子核の発見につながったガイガー=マースデンの実験で知られる。

生涯
1945年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ブランデンブルク州 / ポツダム)
出生地
ドイツ連邦共和国(ノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ブランデンブルク州)

伝記

ハンス・ガイガーは、1882年9月30日、現在のラインラント=プファルツ州にあるノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセで生まれたドイツの物理学者である。正式な名はヨハネス・ハンス・ヴィルヘルム・ガイガーという。父はインド学者で、エアランゲン大学の教授を務めたヴィルヘルム・ガイガーであり、弟は気象学者で気候学者のルドルフ・ガイガーである。放射線量を測るガイガー=ミュラー計数管の発明、原子核の発見につながったガイガー=マースデンの実験、α線の飛程と半減期の関係を示したガイガー・ヌッタルの法則の提唱で知られる。

1902年からエアランゲン大学で物理学と数学を学び、1906年に、放電に関する論文で博士号を得た。卒業後は奨学金を得てマンチェスター大学に渡り、アーサー・シュスターの助手となった。1907年、シュスターの退職後に後任となったアーネスト・ラザフォードのもとで働き始め、1908年から1909年にかけて、アーネスト・マースデンとともに、金箔を使ったガイガー=マースデンの実験を行った。この実験によりα粒子の数を数えることが可能となり、ラザフォードが原子の構造について考えを進めるきっかけとなった。1910年にはマンチェスター文学哲学協会の会員に選ばれた。1911年にはジョン・ミッチェル・ヌッタルとともに、ガイガー・ヌッタルの法則を定式化し、ラザフォードの原子モデルにつながる実験も行った。

1912年にはベルリン近郊シャルロッテンブルクの物理工学研究所で、放射線研究のリーダーとなり、ジェームズ・チャドウィックやヴァルター・ボーテと研究した。二人はのちにそれぞれノーベル物理学賞を受けている。1914年から1918年は、第一次世界大戦に砲兵将校として従軍し、研究は中断した。1924年にはボーテとともに、コンプトン効果を確認する同時計数の実験を行い、これはコンプトンが1927年にノーベル賞を受ける助けとなった。ボーテは、この実験によって、ガイガーの死後の1954年にノーベル賞を受けた。1925年にキール大学の教授となった。1928年に、学生のヴァルター・ミュラーとガイガー=ミュラー計数管を作った。α粒子だけでなく、β線やγ線も検出できるこの装置は、ガイガー計数器の基礎となった。1929年にはヒューズ・メダルを受賞した。

同じ1929年にテュービンゲン大学の物理学教授兼研究主任となり、宇宙線のシャワーを初めて観測した。1936年にはベルリン工科大学の教授となり、宇宙線や核分裂、人工放射能の研究を死去するまで続けた。1937年にはダッデル・メダルを受けた。1939年に核分裂が発見されると、第二次世界大戦中のドイツの核兵器研究「ウラン・クラブ」の一員となったが、核兵器は戦争の終結に大きな役割を果たさないと考えるようになり、グループは1942年に分裂した。ナチス政権が大学に干渉することに反対する請願には署名したが、ユダヤ人であることを理由に解雇されたハンス・ベーテには、支援をしなかった。ナチス政権下でテュービンゲン大学とベルリンの大学の教授職を得たため、ナチスとの関係が問題にされることもあるが、ガイガーは死ぬまで、政治的な発言の記録を残していない。

1945年4月から5月のベルリン攻防戦とそれに続くソ連の占領を耐え抜いた。6月にはポツダムの自宅をソ連軍に接収されて封鎖され、仮住まいに移った。そこで重いリウマチと飢え、衰弱のため、9月24日に62歳で亡くなった。

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