HISTORICAL PERSON · 1744年没

ジャンバッティスタ・ヴィーコ

イタリアの哲学者。ナポリの貧しい本屋に生まれ、王立ナポリ大学の修辞学教授を務め、主著『新しい学』を出版した。

生涯
1744年没
死亡地
ナポリ
出生地
ナポリ
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ジャンバッティスタ・ヴィーコは、1668年6月23日にナポリで生まれ、1744年1月23日に亡くなったイタリアの哲学者である。修辞学者、歴史家、法学者でもあった。ナポリの貧しい本屋の子として生まれ、父は8人の子を抱えていた。幼いころから利発で、貧しいながら初等教育の学校に通わされた。7歳のとき階段から転落して頭蓋骨を損傷し、陽気だった性格が憂鬱で辛辣なものに変わってしまったと『自伝』で述べている。学校にはなじめず、ほとんど自学自習で哲学、文学、歴史学、法学、自然学などを学んだ。イエズス会士ジュゼッペ・リッチからデカルト主義を含む哲学の手ほどきを受けたとも伝わる。

18歳のとき、侯爵ドメニコ・ロッカの子息の家庭教師に雇われ、ナポリより南のチレント半島にあるヴァトッラの居城で9年間を過ごした。城の書庫には哲学から文学、歴史、法学にわたる古今の書物がそろい、彼の精神の発達をうながした。1695年にナポリへ戻り、職探しの末、1699年に王立ナポリ大学の修辞学教授となった。毎年の開講演説を重ね、学問の理論に関する最初の著作『現代の学問の方法』を出した。1724年に法学教授の後任に応募したが失敗した。修辞学教授と法学教授では6倍の俸給の差があったという。

1725年に主著『新しい学』を出版したが、費用を出すはずだったフィレンツェの枢機卿ロレンツォ・コルシーニ(後の教皇クレメンス12世)が約束を反故にしたため、1.25カラットのダイヤの指輪を手放し、原稿の分量も削っての出版であった。その後も数種の版を出したが、いずれも評判はよくなかった。自伝は1728年にヴェネツィアで出版された。金銭面でも健康面でも苦労し、1742年に教授職を退き、息子ジェンナーロが後任となった。1735年から亡くなるまでは、ナポリ王カルロ3世の修史官を務めた。1743年に『新しい学』の新しい版を書き上げ、翌年に亡くなった。亡骸はナポリのオラトリオ会の教会に葬られた。

ヴィーコは、数学的知識以外の知識はあり得ないとするデカルト派の認識論に反対した。学問に必要なのは、認識できるものとできないものを区別する原理であると考え、その原理を「真理と事実とは置換できる」という命題で示した。精神がある対象を理解するには、その対象を人間の精神がすでに作っていなければならない、という意味である。数学は人間の作った仮説であり、歴史も人間の行為が作り出すものであるから、両方とも認識可能だとされ、歴史は数学と並ぶ確実な学問としての地位を与えられた。

歴史研究では、時代は同じ順序で循環する傾向があるとしたが、循環は単に元に戻るものではなく、螺旋を描いて進むとした。歴史家の陥りやすい誤りとして、古代の誇張や理想化、国民的自負、自分の性質を歴史上の人物に投影すること、似た制度があれば一方が他方から学んだはずだとする偏見などを挙げた。言語学や神話、伝説、未開人や子ども、農民のおとぎ話も、歴史家が利用できる材料に数えた。この革命的ともいえる歴史哲学は生前には反響を呼ばず、本格的な評価は19世紀に入り、ベネデット・クローチェの研究を待たねばならなかった。

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