伝記
アレキサンダー・ポープは、1688年5月21日にロンドンで生まれ、1744年5月30日に亡くなったイギリスの詩人である。生まれたのは名誉革命の年で、父は同名のロンドンのリネン商人、母はエディス・ターナーといい、両親ともカトリック教徒だった。当時施行された審査法のため、カトリック教徒は教職に就くことも、大学に通うことも、投票することも、公職に就くことも禁じられた。ポープは叔母から読み方を習い、1698年ごろにトワイフォード校に通い、ロンドンの二つのカトリック系の学校にも通った。
1700年、反カトリック感情の強さと、ロンドンから一定の距離内にカトリック教徒が住むことを禁じる法令のため、一家は王室の領地ウィンザーの森に近いバークシャーのビンフィールドへ移った。ポープの学校教育はここで終わり、以後は古典を読んで独学した。ホラティウスやユウェナリスの風刺詩、ホメロスやウェルギリウスの叙事詩、チョーサー、シェイクスピア、ドライデンなどを読み、フランス、イタリア、ラテン、ギリシアの詩人の作品にも親しんだ。5年の勉強の後、ロンドンの文学界の人々とも接触を持った。ビンフィールドでは、年長の友人ジョン・キャリルが劇作家ウィチャリーらを紹介し、ブラウント姉妹とも出会った。
12歳のころから健康を損ない、背骨に起こる結核であるポット病のために体が変形して成長が止まり、ひどい猫背になった。呼吸困難や高熱、目の炎症、腹痛にも悩まされた。もともとカトリック教徒として社会から隔たりがあったところに、病弱が拍車をかけた。生涯結婚せず、レディ・メアリー・ウォートリー・モンタギューら多くの女友だちに機知に富んだ手紙を書いた。生涯の友マーサ・ブラウントが恋人だったという説もある。
1709年5月、16歳のころに書いた『田園詩』が書肆トンソンの詩選集に収められて出版され、たちまち名声を得た。続く1711年5月の『批評論』も同様に好評だった。簡潔な格言風の韻文による詩論で、当時の上流階級に受け入れられた。1711年ごろにはスウィフトらトーリー党の文人と親しくなり、風刺の「スクリブレルス・クラブ」を結成した。ホイッグ党のアディソンやスティールとも友人になり、1713年3月に『ウィンザーの森』が刊行されて称賛を得た。
ホメロスの『イーリアス』を1715年から1720年にかけて、『オデュッセイア』を1725年から1726年にかけて翻訳刊行した。予約者が訳者に6ギニーずつを支払い、出版業者が無償で作者に本を提供する販売法によって経済的に独立した。1725年には『シェイクスピア全集』も出したが、編者としての本文校訂は学問的批判を免れなかった。ヒロイック・カプレットと呼ばれる簡潔流麗な二行連句を完成させ、その名句はシェイクスピアに次いでしばしば引用される。本領は風刺詩にあり、『髪盗人』が傑作とされる。ほかに『愚物列伝』(1728年から)、友人ボリングブルックから学んだ理神論を韻文にした『人間論』(1732年から1734年)がある。当代の貴族たちとも親しく交際し、優雅な言葉遣いと当意即妙の機知は、詩の特徴でもあった。イギリス詩人の伝統を、チョーサー、スペンサー、ダン、ドライデンの流れとして理解していたが、その列にシェイクスピアやミルトンが欠けていることは多くを物語る、と評される。
同じ年に亡くなった人物
- アンドレ・カンプラ (1744年没)
- アンティオコス・カンテミール (1744年)
- アンデルス・セルシウス (1744年没)
- サラ・ジェニングス (1744年没)
- ジョン・デサグリエ (1744年没)
同じ地域に関係する人物
- マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン=シシレ (1822-1869) (1869年没)
- シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ (1818年没)
- ジェームズ・トムソン (1700年生の詩人) (1748年没)
- チャールズ・ライトラー (1952年没)
- エドウィン・チャドウィック (1890年没)