HISTORICAL PERSON · 1748年没

ヨハン・ベルヌーイ

スイスの数学者。ロピタルの定理として知られる定理の発見者で、1690年にカテナリー曲線の方程式を発見した。兄とともにライプニッツの微積分法の発展に寄与し、弟子にオイラーがいる。

生涯
1748年没
死亡地
スイス連邦(バーゼル=シュタット準州 / バーゼル)
出生地
スイス連邦(バーゼル)
出典
世界地図
スイス連邦(バーゼル=シュタット準州)

伝記

ヨハン・ベルヌーイは、スイスの数学者である。1667年8月6日にバーゼルで生まれ、1748年1月1日に没した。フランス語ではジャン・ベルヌリと呼ばれる。ロピタルの定理として知られる定理の発見者であり、無限小解析への貢献と、若いオイラーを教えたことで知られる。

父ニコラスはバーゼルの人で、レムニスケートに名を残す数学者ヤコブは、その長男である。ヨハンは10番目の子にあたる。ベルヌーイ家は17世紀から18世紀にかけて、少なくとも8人の数学者を輩出した。父は、一家の香辛料の商売を継がせようと商業を学ばせたがったが、ヨハンは商売を好まず、父を説得して医学を学ぶことにした。バーゼル大学で医学を学ぶかたわら、兄ヤコブから数学を教わり、在学中は兄弟で、新たに見出された無限小解析の研究に多くの時間を費やした。2人は、微積分を理解したばかりでなく、さまざまな問題に応用した最初期の数学者に数えられる。1690年に筋肉の運動などを論じた医学の学位論文を書き、これはライプニッツの審査を受けた。

学位を得たのち、微分方程式の教師となり、1694年にバーゼルの市参事の娘ドロテアと結婚して、ほどなくフローニンゲン大学の数学教授の職を受けた。1690年にはカテナリー曲線の方程式を発見し、翌年には指数関数の微積分を確立した。懸垂線の問題は、ホイヘンス、ライプニッツと同時期に独立に解いた。重力場での粒子の運動など、応用数学の多くの分野でも貢献した。ギヨーム・ド・ロピタルに数学の個人教師として雇われた時には、ロピタルがその発見を使う権利を定めた契約を結んだ。ロピタルが1696年に出版した欧州初の微分積分学の教科書には、現在ロピタルの定理として知られる定理を含め、ヨハンの業績が多く含まれていた。のちにヨハンは、序文があるにもかかわらず、十分な評価を受けていないと不満を訴えた。

1696年には、重力だけが働く粒子が2点間を最短時間で進む経路を求める最速降下線の問題を出し、賞を懸けて解を募った。ヨハンはサイクロイドを提案したが、その導出は誤っており、兄ヤコブの導出を自分のものとして発表したとされる。兄弟は、共同研究のあと、互いに嫉妬と競争心を抱くようになり、後にはしばしば衝突した。1705年、義父の頼みでバーゼルへ戻る旅に出た直後に、兄の死を知り、予定していたギリシア語教授ではなく、兄の後任の数学教授となった。1713年のライプニッツとニュートンの先取権論争ではライプニッツの側に立ち、デカルトの渦動説を支持して、ニュートンの重力理論が大陸で受け入れられるのを遅らせた。1712年には王立協会のフェローに選ばれた。1724年にはパリの科学アカデミーの懸賞に応募し、ライプニッツの見解を擁護して無限の外力を仮定したため失格となったが、その論文は1726年の別の懸賞で受理され、いずれも佳作に選ばれた。

息子のダニエルは、流体力学のベルヌーイの法則を導き、1738年に『流体力学』を出版した。ヨハンは1743年に『水力学』を出版したが、日付を6年早く偽って、先取権を奪おうとした。ダニエルは友人オイラーへの手紙で、成果を奪われたと嘆いた。最終的にヨハンの評判は落ち、独創的な業績にも疑いの目が向けられた。弟子のオイラーもバーゼルの生まれである。

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