HISTORICAL PERSON · 1969年没

カール・ヤスパース

ドイツの哲学者・精神科医で、実存主義哲学の代表的論者の一人。『精神病理学総論』『哲学』などの著書が有名で、精神医学にも強い影響を与えた。

生涯
1969年没
死亡地
スイス連邦(バーゼル=シュタット準州 / バーゼル)
出生地
ドイツ連邦共和国(オルデンブルク)
出典
世界地図
スイス連邦(バーゼル=シュタット準州)

伝記

カール・ヤスパースは、1883年2月23日に生まれたドイツの哲学者、精神科医で、実存主義哲学の代表的な論者の1人である。現代思想や現代神学、精神医学に強い影響を与え、精神病理学者、哲学者、政治評論家という3つの顔を持っていた。早くから哲学に関心を抱いていたが、父が法曹界に身を置いていたため、大学ではまず法学を学びはじめた。まもなく1901年に医学の道へ転向し、1909年に医学部を卒業すると、ハイデルベルクの精神病院で医師として働いた。そこで当時の医学界の精神病に対する姿勢に疑問を抱き、精神医学の方法論の改良を目指すようになった。

1913年にはハイデルベルク大学で精神医学を教えはじめ、処女作『精神病理学総論』を出した。以後、臨床に戻ることはなかったが、精神医学への関心は終生変わらず、この書を大幅に増補して第4版として公刊したのは、第二次世界大戦後である。精神医学の分野では、フッサールの唱えた本質への直観的な推測を排し、患者の言葉の正確な記述に徹する「記述精神病理学」を試みた。精神医学から哲学に転じて、1921年から1937年までハイデルベルク大学の哲学教授を務め、この時代にハンナ・アーレントも教えを受けた。『世界観の心理学』ではキルケゴールの著作から多く引用し、神へと向かう人間存在についての心理学的研究という方法を見いだした。

ナチスが台頭すると、妻ゲルトルートがユダヤ人であったことや、ナチスへの反抗のために大学を追われた。妻の強制収容所への送致は、2人で自宅に立て籠もって阻止し通したが、大戦末期にはヤスパース夫妻の収容所移送が決まり、自殺するほかないところまで追い詰められた。移送の予定日まで数十日となった1945年3月30日、アメリカ軍がハイデルベルクを占領したため、移送を免れた。後年、「自国の政府により殺される寸前、敵国の軍隊により命を救われた」と述懐しており、この体験は哲学に強い影響を与えたといわれる。戦後はハイデルベルク大学の復興に尽力したが、ドイツの戦争責任を論じた『責罪論』をめぐって周囲から心ない非難を浴び、ドイツに対する裏切り者呼ばわりもされて深く傷つき、1948年にスイスのバーゼル大学の哲学教授となった。

戦争体験を機に、政治哲学的な著作も数多く書いた。東西冷戦が核武装競争と化していく状況を、自らの概念である「限界状況」と捉え、政治的な対話を「交わり」と捉えるなど、単なる学問にとどまらない積極的な活動を展開した。主著『哲学』では、交わり、限界状況、絶対的意識の3つが、存在意識の変革に達するための重要な概念である。限界状況とは、誰もが突き当たる壁のようなもので、その典型は自己の死であり、それに直面して、人は自己の存在の確実性が挫折することを自覚する。そのとき超越者との出会いの機会が与えられ、実存へと目覚める。実存的交わりとは、実存相互のまじわりのことで、人は他者や状況とのまじわりによって、かけがえのない本来的な自己に至ると考えた。また歴史観として、紀元前500年前後に人類が精神の目覚めを経験した「枢軸時代」を唱え、イスラエルの預言者、ギリシアの哲学者、中国の諸子百家、インドの仏陀などが登場した時代とみなした。

1958年にドイツ書籍協会平和賞を、1959年にエラスムス賞を受賞した。ほかにも『哲学入門』『現代の精神的状況』『歴史の起原と目標』などの著作があり、アーレントやハイデッガーとの往復書簡も刊行されている。1969年2月26日に没した。

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