伝記
安閑天皇は、伝統的な皇位継承の順では第27代の天皇とされる。即位前の名は、ヒロクニオシタケカナヒ(広国押武金日)の命という。生涯や在位について確かな年代は知られていないが、一般には531年から535年まで在位したと考えられている。『日本書紀』の在位年には不自然な点があり、在位の紀年にはほかにも諸説がある。『古事記』は安閑天皇について、乙卯の年の3月13日に崩じたと記し、これは『日本書紀』と同じく535年の崩御にあたる。
『古事記』によれば、継体天皇の長男で、母はメノコ姫である。即位したときは68歳だったと伝えられる。先代の継体天皇がいつ没したかも正確には分からないが、531年ごろとみられ、『古事記』は527年の崩御とする。継体の没後には、2年ほどの継承争いがあったといわれ、継体天皇は殺されたとみる研究者もいる。一般には、安閑と宣化を支持する勢力と、欽明を支持する勢力が対立したと受け取られている。別の見方では、継体の死後、子の安閑・宣化の側と欽明の側が帝国を分け、同時に権力を行使したとされる。このとき安閑(531年から536年)に続いて宣化(536年から539年)が立ち、欽明は『日本書紀』の記述とは違って540年ではなく532年に早く権力を得たことになる。宣化の死んだ539年に、ようやく統一が戻ったという。この見方に立てば、仏教の公式伝来とされる欽明7年は宣化3年にもあたり、538年のことになる。背景には、527年に九州の中心部で起きた磐井の乱と、529年の朝鮮半島での軍事的な失敗があった。ヤマト王権の基盤が揺らぎ、豪族の勢力配置も改められたと考えられている。
治世でもっとも目立つ出来事は、各地に多くの屯倉(王室の直轄地)が設けられたことである。筑紫の反乱と朝鮮での敗北の直後で、『日本書紀』によれば朝廷はこれを急いで置き、重要な国々への支配を強めようとした。屯倉の多くが九州にあることも、この見方を支える。536年には、筑紫・肥・豊の三つの国の屯倉を一つにまとめた那津(なのつ)の屯倉が置かれ、蘇我稲目にも穀物を送るよう求められたという。関東にも屯倉が置かれた。『日本書紀』の安閑元年の記事によれば、武蔵国造の地位をめぐって長い争いがあり、候補者の一人オミが、ヤマトの支援を求めて逃れた。朝廷は軍事力を伴って介入してオミを国造とし、その敵対者を処刑した。その後オミは武蔵の4つの郡を屯倉として朝廷に差し出した。近隣の毛野の首長は、進んだ農業技術で富と力を蓄え、武蔵への干渉をたくらんでいたとされるが、この献上によってその進出は阻まれた。
陵は、宮内庁により大阪府羽曳野市の古市高屋丘陵に治定されている。墳丘長122メートルの前方後円墳で、遺跡名を高屋築山古墳という。一方、近年は研究者の間で、羽曳野市と松原市の境にある河内大塚山古墳を真陵とする説が出されている。日本で第5位の規模の巨大古墳でありながら、盛土が低く周濠が浅く埴輪も置かれていないことから、完成前に被葬者が亡くなってそのまま葬られたと考えられ、在位が短く暗殺説もある安閑天皇にふさわしいというのである。ただし、これを6世紀後半の古墳の一形態とみて反対する研究者もいる。宮中では皇霊殿で歴代の天皇・皇族とともに祀られている。1936年1月27日には安閑天皇千四百年式年祭があり、皇霊殿で天皇が拝礼し、山陵では祭典が行われて勅使が派遣された。
同じ年に亡くなった人物
- Mundus (536年没)
- Drest IV (536年)
- アガペトゥス1世 (ローマ教皇) (536年没)
- テオダハド (536年没)
- Pope Timothy III (IV) of Alexandria (536年没)