伝記
敏達天皇は、伝統的な皇位継承の順で第30代とされる日本の天皇である。538年に生まれ、585年9月14日に没したとされる。この天皇の事績や治世については十分な証拠がなく、6世紀後半に国を治めたと考えられている。名は渟中倉太珠敷(ぬなくらのふとたましき)で、『日本書紀』にそう記される。
欽明天皇の第2子で、母は宣化天皇の娘の石姫皇女である。569年に父から皇太子に立てられ、572年に欽明天皇が亡くなると、その3日後に跡を継いだ。在位は585年までである。皇后は四人、皇子女は十六人(六皇子と十皇女)とされるが、子の誰も天皇にはならなかった。最初の皇后広姫は在位5年に亡くなり、異母妹の額田部皇女が代わって皇后に昇った。のちの推古天皇である。後には弟の用明天皇、同じく弟の崇峻天皇、妹で妻でもあった推古天皇が続き、さらにその後、孫の舒明天皇が即位した。「天皇」という称号は没後ずっとたってから与えられたもので、多くの歴史家は、この称号が使われ始めたのは天武天皇の時代だと考えている。当時の称号は別のものだったと思われる。
当時の宮廷では、前後の時代と同じく、蘇我氏と物部氏の権力争いが続いていた。蘇我氏は仏教を宮廷に広めようとし、物部氏は中臣氏とともに神道の立場からこれに強く反対した。争いは一世紀以上に及び、宗教上の原因もあったという。大臣の位は、前の大臣蘇我稲目の子である蘇我馬子に与えられた。馬子は次第に宮廷での影響力を広げ、敏達天皇の後継者である用明天皇の時代には、国の政治の中心人物となった。敏達天皇の治世に、馬子は仏教の普及に努め、いくつかの寺を建て、僧たちに生活の手段を与えた。
宮については、先帝が亡くなった宮に住むのは不吉だという考えから、飛鳥から近くの地へ移り、百済大井宮を築いた。3年後に再び遷って、桜井の訳語田幸玉宮に宮を置いた。この三つの場所は互いに10キロメートルも離れていない、大和国の中にある。外交では、百済や新羅との外交と通商の関係を復活させた。内政では、北の辺境で起きた蝦夷の反乱を鎮圧させた。百済の王は友好のしるしとして、仏像や経典、僧たちを送ってきた。天皇はこれを受け入れ、はじめは宮廷で新しい宗教の教えについて語った。だが欽明天皇の時代に現れていた天然痘が重く広がると、物部氏や中臣氏が、神々が新しい信仰を受け入れた罰を国に与えているのだという考えを宮廷に広めた。蘇我馬子は自分の信仰を続けることを許されたが、仏像は川に投げ込まれ、経典は破壊され、百済から来た僧たちは神の怒りを鎮めるために罰せられた。それでも天皇は天然痘から逃れられず、病にかかって苦しみながら585年に亡くなった。
陵は宮内庁により、大阪府南河内郡太子町の河内磯長中尾陵に定められている。母の石姫皇女との合葬陵で、宮内庁上の形式は前方後円で、墳丘長113メートルの前方後円墳である。『日本書紀』は、殯を経て崇峻天皇4年4月に、先に亡くなった母の墓へ追葬されたとする。『延喜式』には遠陵の「河内磯長中尾陵」として載り、河内国石川郡にあるとされる。元禄の探陵のころは叡福寺の領地で、元治元年(1864年)に拝所が設けられ、1899年には御在所が修補された。ただし、この古墳には円筒埴輪が認められ、時代の点で疑問が残るため、真の陵を太子町葉室の葉室塚古墳とする説もある。皇居の皇霊殿では、ほかの歴代天皇や皇族とともに祀られている。