伝記
トリボニアヌスは、東ローマ帝国の法学者で、ユスティニアヌス帝の顧問である。皇帝のもとで帝国の法典の改訂を指揮し、皇帝の最も賢明な協力者の一人といわれる。
生まれは485年ごろで、パンフィリアの出身とされる。出身地はキュメともシデともいわれ、のちのシデに当たる土地である。異教徒だった可能性も指摘される。十分な教育を受け、法律を学んだ場所はコンスタンティノープルともベイルートの学校ともいわれ、法学以外にも共和政ローマや帝政ローマの歴史に及ぶ教養があった。ヨハンネス・リュドスは彼を教養の高い人物と記している。やがて当代随一の法学者として知られるようになった。キャリアは法廷での弁護、とりわけ近衛長官の法廷での実務から始まり、コンスタンティノープルの官署での勤務を経たとされる。ただし同時代の人々は、彼にはおべっかの過ぎることと、さもしい強欲という二つの大きな欠点があったと指摘している。ユスティニアヌスはこれを咎めず、むしろその長所を重んじたという。
皇帝とは親しい間柄にあった。時期ははっきりしないが、トリボニアヌスは官房長官に任じられた。528年には、新しい帝国法典を準備する委員の一人に指名され、この委員会は10人の法学者からなり、コンスタンティノープルの法学教授テオフィロスも加わっていた。ハドリアヌス帝以来の皇帝の勅法を集め、矛盾する規定を取り除くことが任務で、約14か月で仕上がった法典は529年4月7日に公布された。同年9月には聖なる宮殿の財務官(法務を担う高官)に任命された。530年、皇帝は次の大事業として、古典期のローマ法学者たちの著作を集めて調和させる作業の責任者に、この財務官トリボニアヌスを選んだ。目的は、法を明確にして訴訟を短くすることと、ベイルートとコンスタンティノープルの法学校で使う教材をつくることにあった。同じころ、ガイウスの法学提要を改訂して、法学一年生向けの教科書をつくる仕事も任された。学説彙纂と新しい法学提要は533年12月に公布された。534年には、最初の法典以後に多くの新法が出され、古い法の調整も進んだため、第二版が必要と皇帝が判断し、529年の版にすっかり取って代わる法典が出された。529年版の本文は失われている。
順調な経歴の途中で、挫折もあった。532年のニカの乱のさなか、敵対者たちが汚職を訴え、トリボニアヌスは財務官を解かれた。それでも法典編纂の仕事は続け、535年に財務官に復帰して、死ぬまでその地位にあった。その後も皇帝のために新法の起草を続け、それらは新勅法と呼ばれ、のちに法典、学説彙纂、法学提要と合わされて、ローマ法大全を構成した。
トリボニアヌスは542年に病気で亡くなった。ペストだったかもしれないとされる。543年没とする説もある。伝記を書いた現代の研究者トニー・オノレは、約12年間皇帝の立法と宣伝を担当した大臣であり、この間にローマ法大全の3部と、ユスティニアヌス時代に残る立法の大半が生まれ、現存する皇帝の勅法の約4分の3を自ら起草したと要約する。第二次法典編纂委員会を計画して指揮し、学説彙纂、法学提要、第二版の法典をつくらせたのも彼である。ほかにプトレマイオスの暦表への注解、惑星、韻律、ホメロスに関する著作などが、彼の作と伝えられている。後世には、比較立法学会が自らの法律・判例の批評誌にトリボニアヌスの名を冠した。
同じ年に亡くなった人物
- マタスンタ (543年(推定))
- Arator (543年)
- Octa of Kent (543年)
同じ地域に関係する人物
- テオドロス2世パレオロゴス (1448年没)
- ニハト・エリム (1980年没)
- ロマノス1世レカペノス (948年没)
- バーキー (1600年没)
- トゥルハン・スルタン (1683年没)