伝記
ロマノス1世レカペノスは、東ローマ帝国マケドニア王朝期の皇帝(在位920年〜944年)である。870年頃に生まれ、948年6月15日に没した。生まれはアナトリア東部の、アルメニア人が多く住む地方にあるラカペとされ、レカペノスという呼び名はこの地名に由来すると考えられている。父はテオフィラクトス・アバスタクトスといい、史料はアルメニア人の農民の出とする。伝承によれば、父は871年頃、テフリケのパウロ派との戦いで皇帝バシレイオス1世の命を救ったという。教育は限られていたと思われ、のちにコンスタンティノス7世は、この義父を無教養で宮廷の作法に疎い人物として貶めた。ただし、これは自分を政務から遠ざけた一族への敵意を背景にした像とされる。
ロマノスは海軍で出世した。911年にはサモス軍管区の長官で、その後、帝国艦隊の司令長官に昇った。大きな軍事貴族の家の出ではなく、宮廷にも有力な人脈はなかったが、首都に直接おかれた軍事力である艦隊を握っていたことが、のちに権力を掌握する鍵となった。917年、コンスタンティノス7世の母で摂政のゾエ・カルボノプシナが、ブルガリアのシメオン1世との戦いに敗れ、アンキアロスの戦いで大きな損害を出した。この作戦でロマノスは艦隊を率いていたが、遠征を支える連携がうまくいかなかったうえ、生き残った陸軍を見捨てて帰還したと非難する年代記もある。こうした記述は、後の政争の影響を受けているため注意が必要とされる。ゾエは彼に対する調査を命じ、目をつぶす刑を受けかけたともいう。
だが、敗戦で摂政の権威は大きく傷ついた。ロマノスは919年3月にクーデターを起こしてゾエを追放し、娘のヘレネをコンスタンティノスに嫁がせてその義父となった。同年9月には副皇帝、12月には共同皇帝となって帝国の実権を握り、920年12月にはみずから正皇帝として即位して、コンスタンティノス7世を共同皇帝に格下げした。
即位後は、婚姻策で貴族との結びつきを強め、レカペノス家による帝位の世襲化を図った。教会との関係も深め、933年には末子が総主教となった。対外的には、侵攻してきたシメオンをクロアト族と結んで撃退し、927年にシメオンが没すると和睦を結んで、その息子に長男クリストフォロスの娘マリアを嫁がせ、帝国西方の国境を安定させた。東方では名将のもとで攻勢に転じ、大きく勢力を拡大した。941年にはキエフ大公国の艦隊にコンスタンティノープルを攻撃されたが、これを撃退した。
しかし世襲化の構想は、931年に期待していた長男クリストフォロスが父に先立って没して挫折した。ロマノスは944年、コンスタンティノス7世を帝位継承者に指名した。実子のステファノスとコンスタンティノスを無能と評していたためだが、二人はこれに不満を持ち、同年12月にロマノスを帝位から追って、マルマラ海のプリンキポス諸島へ追放し、修道士にした。二人はさらにコンスタンティノス7世をも排除しようとしたが、民衆の支持を得ていたその排除には失敗し、逆に捕らえられて追放された。ロマノスは948年、修道士として世を去った。レカペノス家の名はその後の歴史から消えるが、庶子の宦官はロマノス2世の治世から、バシレイオス2世に追放されるまで、事実上の宰相として権勢を誇った。
同じ年に亡くなった人物
- カースィム・ガンヌーン (948年没)
- Qudama ibn Ja'far (948年)
同じ地域に関係する人物
- マヌエル2世パレオロゴス (1425年没)
- フォカス (610年没)
- イブラヒム・ミュテフェッリカ (1745年没)
- グリゴリオス5世 (コンスタンディヌーポリ総主教) (1821年没)
- ムスタファ・レシト・パシャ (1858年没)