伝記
ヌルシアのベネディクトゥスは、西方教会における修道制度の創設者と呼ばれる中世初期のキリスト教の修道院長である。480年頃、スポレートに近い小さな町ヌルシア(現在のウンブリア州ノルチャ)の古代ローマ貴族の家系に生まれた。伝承によれば、父はエウトロピウス、母はアブンダンティア・クラウディアといい、双子の妹に聖スコラスティカがいたとされる。
12歳でローマへ送られ、妹とともに学んだという。ローマで学問を修め、東ゴート王国の大王テオドリックが奨励した古典教育を受けた。これは行政官として必要な教養を身につけるためのものであったが、福音の教えに共鳴した彼は、神に生涯を捧げることを決意して早い時期に学校を退いた。ローマでの放縦な生活に失望し、隠修士になろうというよりも、大都会の喧騒から離れた場所で暮らすことを望んだという。乳母とともにエンフィデに身を寄せたのち、田舎で自らの労働によって生活しつつ修道生活を営むことを考えるに至った。ベネディクト会の標語である「祈り、かつ働け」は、この精神を表したものである。
修道士ロマヌスの勧めで数年間を洞窟での隠修生活に過ごしたのち、山中の町スビヤコに修道院を設立した。評判を聞いて共鳴者が次々と集まり、スビヤコには12の修道院が増設された。それぞれの修道院に12人の修道士と1人の監督者を住まわせ、自身は少数の弟子たちと別の修道院で暮らしながら、なおスビヤコ全体の修道院長として父親役を務めた。ローマの貴族たちも子弟を預けるようになり、その中から聖マウリスや聖ブラキドゥスらが現れた。しかし反感を抱く者も増え、ある修道士に毒殺されそうになったとも伝えられ、彼は一度スビヤコの町を離れた。弟子が増えるにつれて地元の聖職者たちの敵意も募り、南へ約100キロメートル離れた地への移動を余儀なくされた。
529年頃、ローマとナポリの間にあるモンテ・カッシーノに移って修道院を設立し、以後の生涯は理想とする修道生活の実現に捧げられた。540年頃には修道会則、すなわち『戒律』を定めた。厳格派と穏健派の中道をとり、労働と精神活動について定めたこの会則は、初心者のために記した最も控えめな戒律だと本人が述べている。この会則は、ヨハネス・カッシアヌスの著作から強い影響を受け、それ以前の『師の規則』とも親近性が高いが、均衡と節度と良識という独自の精神を備えており、中世に興った多くの修道会がこれを採用する理由になったとされる。ただ、実際には修道士だけでなく神への導きを求める人々に有益な指示を与えるもので、中庸と謙遜、そして霊的生活において本質的なものとそうでないものを冷静に見分ける力によって、今日まで力を保っているとされる。
547年頃にモンテ・カッシーノで没し、妹のスコラスティカとともに葬られた。彼の生涯を伝える古い記録はほぼ、教皇グレゴリウス1世の『対話』第二巻に限られる。593年の成立と考えられるが、真正性には議論があり、現代的な意味での伝記というより、弟子たちの証言に基づく霊的な肖像であるとされる。彼の戒律は西ヨーロッパのほぼすべての修道会に広がり、長く中世ヨーロッパの修道制度の基礎とされた。1964年にはパウルス6世が彼をヨーロッパの守護聖人と宣言し、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会、正教会で聖人として崇敬されている。
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