HISTORICAL PERSON · 548年没

テオドラ (ユスティニアヌスの皇后)

東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の皇后。貧しい踊り子から皇后となり、夫の助言者として国政に関与した。532年のニカの乱で逃亡しようとする夫を制し、鎮圧へ導いた。ラヴェンナのモザイク画にも描かれる。

生涯
548年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
トルコ共和国(パフラゴニア)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

テオドラは、500年頃に生まれ、548年6月28日に没した東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の皇后である。貧しい踊り子から皇后にまでのし上がり、夫を助けて国政に関与した。生地については説が分かれ、首都コンスタンティノポリスまたはキプロスとされるほか、シリアのダマン、あるいはパフラゴニアとする説も伝えられている。

父アカキウスは、首都の競馬場ヒッポドロームで熊使いをしていた。テオドラは三姉妹の次女で、姉にコミト、妹にアナスタシアがいたとされる。幼いころに父が早世すると、母は同じ仕事を引き継ぐ男性と再婚したため、一家は競馬場の地下で暮らし続けることができた。母は娘たちに花冠を持たせて競馬場に立たせ、嘆願者として差し出したところ、青党の派が好意的に迎え、以後テオドラは青党の支持者となったという。やがて姉コミトの助手として舞台に立ち、踊り子(女優)となった。同時代の歴史家プロコピオスは『秘史』で彼女の過去を辛辣に描いたが、この書は偏った記述だと現代の批評では見られている。プロコピオスは彼女について、『戦史』では勇気に満ちた影響力ある皇后、『秘史』では下品で邪悪な女、『建築について』では敬虔で美しい皇后と、三通りの矛盾した姿を示した。一方、同時代のエフェソスのヨハネスは彼女の贖いを強調し、プロコピオスが挙げなかった非嫡出の娘にも言及している。一度は官僚の夫とともにリビアへ赴いたものの、その地で離縁され、子供を抱えながら怪しい踊り子稼業をしてアレクサンドリアなどを経由し、コンスタンティノポリスへ戻った。ここで皇帝ユスティヌス1世の甥ユスティニアヌスと出会う。

ユスティニアヌスは一目惚れしたとされ、525年に結婚した。踊り子と元老院議員の結婚は法律で禁じられ、皇后エウフェミアや多くの貴族も反対したが、エウフェミアの死後、ユスティニアヌスは叔父を動かして法律を改めさせた。527年にユスティニアヌスが叔父の跡を継いで即位すると、テオドラは皇后となった。貧しい身分からたくましく生き抜いてきた女傑として、たびたび夫の助言者を務め、後世の歴史家には彼女を女帝と呼ぶ者さえいた。彼女を共同統治者として記す史料もある。

最も有名なのは、532年に首都市民が起こしたニカの乱での対応である。プロコピオスの『戦史』によれば、反乱にうろたえて港に船を用意し逃亡しようとする夫を制して、彼女は演説を行った。その場にいた者たちは感銘を受け、逃げるか留まるかの議論をやめ、鎮圧のために団結したという。勇気づけられたユスティニアヌスは将軍ベリサリウスに命じ、反乱を武力で鎮圧させた。この時、軍隊は3万人の市民を殺したと言われ、関係者の処刑と徹底した弾圧を経て、皇帝は専制権力を確立したと考えられている。焼失した聖ソフィア教会は、反乱終結の39日後に復旧が始められた。

がん(乳癌とも言われるが詳細は不明)を患い、ユスティニアヌスより17年早く世を去った。イタリアのラヴェンナにあるサン・ヴィターレ大聖堂のモザイク画には、夫妻の姿が描かれている。ビザンティン帝国がラヴェンナを奪還した547年以降、彼女が亡くなる1年前に完成した作品である。正教会の一部では夫とともに聖人として崇敬され、記念日は11月14日とされる。近年には彼女を題材とした演劇、オペラ、映画、小説も書かれている。

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