伝記
ピョートル3世フョードロヴィチは、1728年2月21日(ユリウス暦2月10日)に生まれ、1762年7月に没したロマノフ朝第7代のロシア皇帝である。在位は1762年1月5日から同年7月9日までのわずか半年ほどで、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公でもあった。ドイツ名はカール・ペーター・ウルリヒという。
ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒと、ピョートル1世の長女アンナ・ペトロヴナの間に、ホルシュタイン公国のキールで生まれた。父はスウェーデン王カール11世の曾孫にあたる。母は産後わずか数週間で、20歳で世を去り、1739年には父も亡くなったため、11歳で孤児としてゴットルプ公位を継いだ。その2年後、母方の叔母エリザヴェータがロシア女帝となった。子のない女帝は彼をドイツからロシアに呼び寄せて1742年秋に後継者に指名し、同年11月に正教に改宗して、ピョートル・フョードロヴィチと名乗らせた。この間、スウェーデン議会も彼を後継者に選んだが、すでにロシアの後継者となっていたため、スウェーデンの王位への道は閉ざされた。
1745年8月21日、エリザヴェータの手配で、父方の又従妹ゾフィー・アウグスタ・フリーデリケ・フォン・アンハルト=ツェルプストと結婚した。彼女は正教に改宗してエカチェリーナ・アレクセーエヴナと名乗り、のちのエカチェリーナ2世となる。この縁談の数週間前、ピョートルは16歳で天然痘にかかり、助かったものの顔に痕が残った。夫婦仲は幸福ではなく、後の皇帝パーヴェル1世と一人の娘が生まれたが、エカチェリーナは回想の中で、パーヴェルは夫の子ではないと語っている。双方に愛人があった。エカチェリーナは夫を「ホルシュタインの酔っぱらい」などと酷評し、人柄の評価は主に彼女の回想から形づくられてきた。一方、ロシアの歴史家ミルニコフやドイツの歴史家パルマーのように、教養があり開明的な君主であったとして見直す研究もある。
1762年1月5日、エリザヴェータの崩御により即位した。七年戦争のさなかだったが、プロイセン国王フリードリヒ2世を崇拝していたため、5月5日のサンクトペテルブルク条約でプロイセンと即時講和し、6月に攻守同盟を結んだ。ロシアが多大な犠牲を払って得た領地はすべてプロイセンに返還された。さらにデンマークに矛先を向け、7月6日にメクレンブルクを通ってデンマークに侵攻するよう軍に命じたが、両軍が遭遇する直前に政変が起き、侵攻は取り消された。
即位後は、貴族の奉仕義務の廃止、拷問の禁止、秘密警察の解散、塩税の廃止、教会財産の国有化、宗教的寛容など、数々の改革に取り組んだとされる。しかしその一方で、ロシアの戦果を覆すプロイセン寄りの政策は強く批判された。7月9日、皇后エカチェリーナを支持する近衛部隊が蜂起し、ピョートル3世は逮捕されて廃位された。首都郊外で軟禁され、新政権はシュリッセリブルクへの終身投獄やホルシュタインへの送還を検討したが、いずれも危険すぎるとして退けられた。その後、アレクセイ・オルロフらによって殺害されたとされる。新政権は痔疾による死と発表したが、ヴォルテールらは疑問を呈した。のちには彼を名乗る偽者が多く現れ、プガチョフやモンテネグロのシュチェパン・マリが知られる。
同じ年に亡くなった人物
- パウル・トロガー (1762年没)
- ドロテーア・エルクスレーベン (1762年没)
- フランチェスコ・マンフレディーニ (1762年没)
- ニコラ=ルイ・ド・ラカーユ (1762年没)
- ヤーコプ・アードルング (1762年没)
同じ地域に関係する人物
- トイヴォ・クーラ (1918年没)
- カール・フィリップ (セーデルマンランド公) (1622年没)
- ミカエル・アグリコラ (1557年没)
- フランツ・ヴァルター・シュターレッカー (1942年没)
- アブラム・ガンニバル (1781年没)