HISTORICAL PERSON · 1763年没

アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ

フランスの聖職者・小説家。軍隊入りや国外逃亡の経験を土台に名作『マノン・レスコー』を書き、あらゆる紀行文をまとめた『旅行の歴史』も出版した。

生涯
1763年没
死亡地
フランス共和国(オワーズ県 / Courteuil)
出生地
フランス共和国(エダン)
出典
世界地図
フランス共和国(オワーズ県)

伝記

アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ・デグジルは、1697年4月1日にフランス北部のエダンで生まれ、1763年11月25日にクルトゥイユで亡くなった小説家である。歴史家、ジャーナリスト、翻訳者、聖職者でもあり、聖職者であったことから、アベ・プレヴォ(プレヴォ師)と呼ばれることが多い。父リヴァン・プレヴォは高等法院付きの弁護士で、エダンの裁判所の国王代理官を務めた。祖父は醸造職人の親方であった。エダンの学院で学び、その才をイエズス会士に見いだされて、兄弟とともにパリのアルクール学院の修練院に送られた。1712年か13年のことではないかとされる。

1714年にはイエズス会の神父たちに俗な作品を書いているところを見つかり、追い出されたといわれる。ローマへ向かう途中で出会った士官に勧められ、軍隊に入ったが、まもなく脱走してオランダへ逃れ、そこでカフェを営んだという。1716年にオルレアン公が出した大赦で帰国し、パリのイエズス会で再び修練を始めた。その後ラ・フレーシュの学院で哲学を終えようとしたが、『貴族の回想録』を書いているところを見つかり、1718年末か翌年初めに再び逃げ、今度は士官としてカタルーニャの戦いに加わった。戦争が終わるとまた消息を絶ち、オランダにいたらしい。こうして聖職を離れて軍に入り、逃亡して外国へ行った経験が、のちの名高い『マノン・レスコー』の土台となった。

1720年夏にはジュミエージュのベネディクト会修道院に入り、サン・モール会の厳格な会則に従って誓願を立てた。学識ある出版の手法を学ぶため、サン・トゥアン修道院に送られた。1721年には、反イエズス会の風刺を古代風の物語に包んだ小説『ポンポニウスの冒険』の原稿を出版者に渡している。1726年に司祭に叙階され、人文学を教えたのち、サン・ジェルマン・デ・プレ修道院で『ガリア・クリスティアナ』の編纂に加わる一方で、実際には『貴族の回想と冒険』に取り組んでいた。1728年、もう少し会則のゆるい会への移籍を願い出たが、叶わず、許可なく修道院を去った。逮捕状が出たため、ロンドンへ逃れた。

ロンドンで家庭教師となり、教え子の父の娘を誘惑して結婚しようとしたことから、1730年末に同地を離れ、オランダに移った。そこでエレーヌ・エックハルトという女性と結ばれ、1731年から1732年に小説『イギリスの哲学者、あるいはクリーヴランド氏の物語』を書き進めた。自分の遍歴にちなんで「デグジル(追放)」の名を名乗るようになったのも、このころである。『貴族の回想と冒険』の続編を出し、その最終巻が『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語』であった。自らの経験に着想を得たとも考えられ、パリの高等法院は焼却を命じた。

1733年、借金に追われてロンドンに戻り、英国の文学と文化の紹介を主とする雑誌『賛否』を創刊した。1740年までほぼ休みなく編集した。偽の小切手を作って投獄されるなどし、1734年にフランスへ戻ってベネディクト会に復帰し、1736年初めにコンティ公の司祭となって庇護を受けた。『キルリーヌの司祭』や『近代のギリシア女の物語』のほか、英語からの翻訳も手がけ、15巻の『旅行総史』(1746年〜1759年)はヨーロッパで出版された紀行を集大成したものとして名高い。

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