HISTORICAL PERSON · 1305年没

ギー (フランドル伯)

フランドル伯。イングランドとの貿易戦争を条約で収めたが、後にフランス王フィリップ4世と対立し金拍車の戦いの最中フランスに捕らわれていた。

生涯
1305年没
死亡地
フランス共和国(オワーズ県 / コンピエーニュ)
出生地
フランス共和国(シャンパーニュ)
出典
世界地図
フランス共和国(オワーズ県)

伝記

ギー・ド・ダンピエール(フランドル伯ギー)は、フランドル伯(在位1278年~1305年)で、ナミュール侯も兼ねた人物である。1226年ごろに生まれ、ギヨーム2世・ド・ダンピエールとフランドル女伯マルグリット2世の次男である。1302年の金拍車の戦いでフランドル軍がフランス軍に勝利したとき、ギー自身はフランスに捕らわれていた。

ギーは1246年にベテューヌ領主ロベール7世の娘マティルドと結婚し、のちの伯ロベール3世ら多くの子をもうけた。母マルグリットは二度目の結婚で生まれた子の継承権を確保するため、1246年に長男ギヨームをフランドルの共同統治者にしたが、1251年に兄がトーナメントで死去すると、ギーが母の共同統治者となった。ギーは母とともに、異父兄のエノー伯ジャン1世とフランドル継承戦争を戦ったが、1253年のワルヘレンの戦いに敗れて捕らわれた。1256年、フランス王ルイ9世の仲裁により、身代金を払って解放された。1257年にジャン1世が死去して、継承戦争は中断された。マティルドの没後の1265年3月には、ルクセンブルク伯ハインリヒ5世の娘イザベラと再婚した。ナミュール侯領については、前の侯の権利を買い取り、争いは和解で収まったという。1270年には、第8回十字軍でルイ9世に従った。

同じ1270年、母は税の不払いを理由にフランドルにいるイングランド商人の財産を差し押さえた。イングランド商人はフランドルの織工に羊毛の大部分を供給していたため、両国の貿易戦争となり、1274年7月28日のモントルイユ条約で終結して、商人に課された税は実質的に廃止された。1278年にマルグリットが退位した後も、ギーはこのイングランド商人の扱いにしばしば手を焼いた。

1288年、税に対する不満からフランス王フィリップ4世がフランドルに強硬な姿勢を取りはじめ、ギーとの間に緊張が生じた。1294年、ギーは娘フィリッパとイングランド王太子エドワード(のちのエドワード2世)との結婚を計画した。するとフィリップはギーと二人の息子を捕らえて、結婚を取りやめるよう強い、フィリッパをパリで1306年に死ぬまで幽閉した。ギーは1296年にも王に呼び出され、補償金を払い領地を引き渡すまで、フランドルの主な都市はフランス王の保護下に置かれた。こうした屈辱ののち、ギーは1297年にイングランド王エドワード1世と同盟して報復を図ったが、フィリップはフランドルを王領と宣言した。アルトワ伯ロベール2世のフランス軍はフールネの戦いで勝ち、エドワード1世は1298年にフィリップと和議を結んだ。フランス軍は1299年に再びフランドルへ侵攻し、1300年1月にギーと息子ロベールは捕らえられた。

フランスの直接統治が、伯の統治より過酷だと知ったフランドルの中産階級は、反発した。ブリュージュの民衆は、ピーテル・デ・コーニンクに率いられ、ギーの多くの息子たちの支えを受けて、フランス人を追い出した。1302年の金拍車の戦いでフランス軍が破れると、ギーは交渉のため一時的に解放された。しかし家臣が譲歩を拒み、1304年にフランス軍はジーリクゼーの戦いでフランドル軍を破り、モン=アン=ペヴェルの戦いでは引き分けた。ギーは約束を守って、自ら捕囚に戻り、実権は長男ロベールに譲ったまま、1305年3月7日に世を去った。

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