伝記
文宣帝は、北朝北斉の初代皇帝である。姓は高、諱は洋、字は子進、鮮卑名は侯尼干といい、本貫は渤海郡蓨県(現在の河北省衡水市景県)である。526年、東魏の権臣高歓の次男として生まれた。母は正妻の婁昭君で、兄の高澄、弟の高演(孝昭帝)や高湛(武成帝)らは同じ母から生まれている。535年には太原公に封じられた。容貌は醜く、内気で無口だったため、幼いころは才覚に気づかれず、兄弟や周囲に笑われていたが、父の高歓はその真価を見抜いていたという。
高歓が子供たちの才能を試そうと、絡まった麻糸を解かせたことがある。ほかの息子たちが解けないなか、高洋は刀で糸を断ち切り、「乱れたものは斬らねばならない」と答えた。これが「快刀乱麻を断つ」の故事のもとになったといわれる。また、高歓が将軍の彭楽に模擬の攻撃をさせて子らの武勇を試したときには、兄の高澄らが怯えるなかで、高洋だけが落ち着いて彭楽を捕らえたとも伝わる。成長してもぼんやりして見え、高澄はとくに彼を見下していたという。ただ、愚かに見えたのは、兄に疑われないようにわざと装っていたためとも考えられている。
547年に高歓が没すると、高澄が摂政となって東魏の政治を握った。549年、鄴で帝位簒奪の手順を協議している最中に、高澄は不当な扱いに怒った下僕の蘭京に殺された。たまたま鄴にいた高洋は、すぐに護衛を集めて蘭京とその一味を殺し、兄の仇を討った。兄の死はすぐには公表せず、権力の掌握を進めた。孝静帝は高澄の死を噂で聞いて権力を取り戻せるかと思ったが、8000人以上の護衛を従えた高洋に会って、容易な相手ではないと悟った。高洋は高氏の本拠である晋陽へ向かい、軍の指揮を固め、それまで彼を軽んじていた将軍たちを、迅速で慎重な判断によって感服させた。丞相となり斉王に封じられたのち、武定8年(550年)、25歳で孝静帝に禅譲を迫って帝位に即き、北斉を建てた。母の婁氏は即位に難色を示していたという。552年には、中山王に降封した元善見を3人の息子とともに殺させ、孝静皇帝の諡号を贈った。魏の宗室の元氏は、のちにことごとく殺されている。
即位当初は政務に力を注いだ。楊愔を登用して州郡と官僚を削減し、富国強兵策を進め、農業・塩鉄業・窯業を中心とする経済を背景に、北斉を短期間で国家として成長させた。軍事面でも柔然・契丹・高句麗などを攻めて勢力範囲を広げた。しかしやがて政務を省みず、酒色に溺れ、宮城の造営に10万の民を徴用するなど奢侈を極めて、民の暮らしを圧迫した。酔うたびに戯れで人を殺し、555年には精神状態の悪化から孝静帝の妹らを朝臣の前で辱めた。同年には寵妃の薛嬪と清河王高岳の内通を疑って高岳を殺し、薛嬪の姉も惨殺した。558年には、たびたび諫めた弟の高浚と、参内の命を拒んで逃げようとした弟の高渙を牢に入れ、火をかけて処刑した。
死去した559年の5月、高洋は北魏の旧皇族の元韶に、後漢の光武帝はどうして漢を中興できたのかと問うた。元韶が「劉氏が王莽に殺し尽くされなかったからです」と答えると、元氏の末裔や北魏の高官らを大々的に虐殺させ、721人が死んだ。遺体は鄴の近くの漳水に捨てられ、その後は魚から人の爪が見つかるようになり、鄴の人々は長く魚を食べなくなったという。乱れた生活は寿命にも響き、34歳で崩御した。死後の北斉では内部の混乱がいっそう強まった。創業の君主として有能であった一方、執念深さと残忍さ、酒乱という欠点を併せ持っていた。子には廃帝の高殷、高紹徳、高紹義らがいる。
同じ年に亡くなった人物
- イダ (559年没)
- 陳霸先 (559年没)
- ムンズィール3世 (559年(推定))
- 陽原王 (559年没)
- ノブラのレオンハルト (559年没)
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