伝記
ペラギウス1世は、500年ごろにローマで生まれたとされるローマ教皇である。ビザンティン教皇制の時代の二人目の教皇であり、前任者ヴィギリウスと同じく、かつてコンスタンティノープルの教皇使節を務めた経歴を持つ。名門のローマ貴族の家の出で、父ヨハネスは当時のイタリアを分けていた二つの行政区の一方で代理官を務めていたと伝えられる。
535年から536年にかけて、教皇に同行してコンスタンティノープルへ赴き、ローマ教会の使節に任じられた。この地位で皇帝ユスティニアヌス1世の顧問の一人となって大きな影響力を得、543年にはオリゲネスの思想を断罪するよう皇帝に進言している。同じ年にローマへ戻った。545年、ヴィギリウスが皇帝の命でコンスタンティノープルへ向かうと、ペラギウスはローマに残って教皇の代理を務めた。この頃、東ゴート王トティラがローマを包囲して住民を飢えさせていた。彼は私財を投じて飢えに苦しむ人々を助け、王と交渉して休戦を得ようとしたが、この外交は失敗に終わった。しかしトティラが市内に入った際には、サン・ピエトロ大聖堂で王と会い、住民の命を奪わないよう説得した。街は組織的に略奪されたものの、この働きかけは人々を救ったとされる。トティラは彼をコンスタンティノープルに送って皇帝との和平を図ろうとしたが、皇帝は将軍ベリサリウスがイタリアの指揮を執っていると答えて彼を送り返した。
その後、再びコンスタンティノープルに滞在した彼は、皇帝が出した三章問題の勅令、すなわち三章の断罪に反対するヴィギリウスを支え、その抵抗を後押しした。三章問題とは、教会内の神学上の対立を和らげようとする皇帝の試みであり、勅令は553年の第二コンスタンティノープル公会議で承認された。ところが教皇が譲歩すると、ペラギウスは小冊子『三章の擁護』で彼を激しく攻撃した。このため皇帝は間もなく彼を逮捕させた。ヴィギリウスの死後に釈放されてローマへ戻ると、それまで西方教会の大半と同じく三章を擁護していた彼は、一転して皇帝の立場を受け入れて広めた。この転向が、皇帝の支持を得て教皇に選ばれる道を開いたとされる。
皇帝の候補であったため、選出は西方の聖職者と信徒に歓迎されなかった。彼を叙階しようとする司教はなかなか現れず、最終的にペルージャとフェレンティーノの司教が引き受けた。彼は選出直後、異例にもカルケドン公会議をはじめとする諸公会議への忠誠を表明し、ビザンティン総督ナルセスの前で、ヴィギリウスに危害を加えていないと誓った。ヴィギリウスの死の責任者だという噂は根強く、殉教者パンクラティウスの墓の前で無実を誓わされ、荘厳な行列にも加わらなければならなかった。
妥協した教皇、裏切り者、ビザンティン人に任命された者と見なされながらも、ペラギウスはローマ司教座の統治において精力的で有能な人物だったという。単性論を支持しているのではないかとの疑いを払うため、ローマの治安維持と聖職者の不正の是正に努めた。フランク人の地ガリアでは特に反発が強く、王が信仰告白を求めるほどだったが、その返答は曖昧であまり誠実ではなかったとされる。北イタリアやガリアなど西ヨーロッパにおける教会の評判は大きく傷つき、後継者たちは以後五十年にわたり、その回復に力を注ぐことになった。561年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- クロタール1世 (フランク王) (561年没)
同じ地域に関係する人物
- エリオ・ペトリ (1982年没)
- マサッチオ (1428年没)
- ラウラ・マルティノッツィ (1687年没)
- エットーレ・スコラ (2016年没)
- マリオ・シェルバ (1991年没)