伝記
ローレンス・スターンは、18世紀イギリスの小説家で、聖職者でもあった。1713年11月24日、アイルランドのティペラリー県クロンメルに生まれた。曾祖父リチャード・スターンは、ケンブリッジ大学ジーザス・カレッジの学寮長に選ばれ、王政復古後にヨーク大主教となった人物だが、父ロジャーは陸軍の下級将校で、財産をほとんど受け継げなかった。ローレンスは7人兄弟の一人で、成人まで生き延びたのは三人だけだった。幼少期は父の連隊の移動に伴い、軍の宿舎を転々とする貧しく落ち着かない暮らしだった。
1722年か1723年、10歳近くになって、ヨークに住む伯父リチャードに預けられ、ハリファックス近郊のグラマー・スクールに入った。その後、父は一羽のガチョウをめぐる喧嘩から同僚と決闘して刺され、一命はとりとめたものの、ジャマイカへ派遣されて熱病で没した。スターンは二度と父に会うことがなかった。1733年、伯父らの援助でケンブリッジ大学ジーザス・カレッジに入り、曾祖父が創設した奨学生に選ばれた。1737年に学士、1740年に修士を取得し、助祭や司祭に叙されて、サットンの教区牧師となった。1741年にエリザベス・ラムリーと結婚し、一人娘リディアが成人した。
その後は、当時としてはごく平凡な田舎牧師として暮らした。大学時代の友人ホール=スティーヴンソンは裕福な蔵書家で、スターンはこの交流を通じて、フランスの滑稽文学やモンテーニュ、セルバンテス、ロック、ラブレーらの著作に親しんだ。伯父はホイッグ党の熱心な支持者で、政治記事を書くよう勧めた。スターンは1741年から1742年にかけて新聞に匿名の宣伝文を書いたが、突然やめ、伯父と決裂して昇進が停滞した。1759年にはヨークの教会の勢力争いを風刺した小冊子を著し、これは教会側の反発を招いて焼かれたという。自分に喜劇の才能があることを知ると、46歳でユーモアの執筆に専念し、『トリストラム・シャンディ』に取りかかった。
1760年1月、『トリストラム・シャンディ』の第1巻・第2巻を出版すると、大評判となり、ヨークばかりかロンドンでも有名人となった。社交界に迎えられ、彼と晩餐をともにするには2週間前からの予約が要ったともいう。以後、1761年に第3巻から第6巻、1765年に第7・第8巻、1767年に第9巻を出したが、続編は出せず、未完に終わった。この作品は、主人公トリストラムがなかなか登場せず、脱線に次ぐ脱線で進み、奇抜なページデザインや記号まで使って、「どこが頭で尻尾か分からない」と形容される。ロックが指摘した観念連合の原理で作品全体が支えられているとも説明される。
スターンは結核の症状が続き、1761年に再び喀血した。1762年からフランスで転地療養し、パリの社交界での歓迎を喜んだ。妻とは冷えた関係となり、別居同然になった。1767年には若き人妻エリザベス・ドレーパーと知り合って恋愛関係となり、日記を交わして、これは後に『イライザへ送る日記』として出版された。1768年2月に大陸旅行の体験から生まれた『センチメンタル・ジャーニー』を出し、同年3月18日にロンドンで没した。19世紀にはユーモア文学の一材料にすぎなかったが、20世紀にジョイスやプルーストら意識の流れを追った作家が現れると、源流として再評価された。日本には夏目漱石が初めて紹介した。
同じ年に亡くなった人物
- ヴァシリー・トレジャコフスキー (1768年)
- Princess Louisa of Great Britain (1768年)
- ジョージ・ハドレー (1768年)
- ヘルマン・ザムエル・ライマールス (1768年)
- サラ・フィールディング (1768年)
同じ地域に関係する人物
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- デレク・ベイリー (2005年没)
- ジョン・バニヤン (1688年没)
- エイドリアン・ボールト (1983年没)
- ジョン・ローレンス (初代ローレンス男爵) (1879年没)