HISTORICAL PERSON · 566年没

Justin

ユスティニアヌス朝の一員で、東ローマの貴族・将軍。540年に最後期の執政官となり、バルカンやラジカで軍を指揮した。有力な後継者と見られたが、ユスティヌス2世に敗れ、追放先のエジプトで殺害された。

生涯
566年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県 / アレクサンドリア)
出生地
トルコ共和国(コンスタンティノープル)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県)

伝記

ユスティヌスは、東ローマ帝国の貴族で将軍である。皇帝ユスティニアヌス1世の甥で、ユスティニアヌス朝の一員にあたる。540年に最後期のローマ執政官の一人に任じられ、のちにバルカン半島とラジカで上級の軍指揮権を握った。スラヴ人やササン朝ペルシャと戦い、東ローマ帝国とアヴァール人との最初の接触を取り仕切った。566年に没したとされる。ユスティニアヌスの死に際しては有力な後継者と見られていたが、従兄弟のユスティヌス2世に帝位を奪われ、エジプトに追放されて、そこで殺害された。

525年ごろ、ゲルマヌスと妻パッサラの長男として生まれた。父ゲルマヌスはユスティニアヌス1世の従兄弟である。540年にごく若くして正規の執政官に任じられ、執政官の二連板画には髭のない姿で描かれている。9年後になっても歴史家プロコピオスから「若者」と呼ばれた。この時すでに「ウィル・イッルストリス」の称号と、コメス・ドメスティコルムの名誉職を持っていた。同年、父に従って東方のペルシャ戦線に赴いたが、戦闘には加わらなかった。549年には、アルメニア人の将軍アルタバネスらによる皇帝打倒の陰謀の発覚に重要な役割を果たした。陰謀者たちはユスティニアヌスと寵臣ベリサリオスを暗殺し、ゲルマヌスを帝位に就けようと企てていた。計画を知ったユスティヌスが父に伝え、父が親衛隊長マルケッルスに話したことで、一味は逮捕された。

550年には、弟のユスティニアヌスとともに、父が率いる東ゴート族支配下のイタリア遠征に加わった。しかしゲルマヌスは、軍が集結していたバルカンで、その秋に急死した。551年の初めには、宦官スコラスティコスの部隊に付き、東バルカンへのスラヴ人の襲撃に対処した。ビザンツ軍はアドリアノープル付近で一度敗れたが、のちに勝利を収め、スラヴ人は帝国領を去った。552年の初めには、弟とともに、イリュリクムを襲うスラヴ人に備える遠征軍の指揮官に置かれた。兵力が小さく、正面から戦えなかったため、兄弟は嫌がらせにとどめるしかなかった。その後すぐ、ゲピド族と戦うロンゴバルド人を助けるため北へ向かうよう命じられたが、ウルピアナ市の宗教的な争いを鎮める必要があって、前進を妨げられた。

554年、軍事の経験を積んだユスティヌスは、ビザンツ軍に加わるため東のラジカに派遣された。ペルシャ軍との最初の戦いは不首尾に終わった。ペルシャの将軍ミフル・ミフロエがテレフィスからマルティヌスを追い出し、ビザンツ軍はキュトロポリスの平原で陣形を整える前に敗走して、ファシス川沿いのネソス島へ退いた。この大敗でベッサスは解任され、マルティヌスが後任となり、ユスティヌスはその副官となった。ユスティヌスは、マルティヌスが同盟者であるラジカ王グバゼス2世の暗殺を企てていたことを知らなかった。事後にそれを知って衝撃を受けたが、皇帝ユスティニアヌスの命令によるものだと誤って信じ、マルティヌスを咎めなかった。

556年にはペルシャのナホラガンが西ラジカに侵入したが、ビザンツ軍は先にファシスの町に着き、長い包囲戦の末に守りきった。翌年に休戦が成立し、562年に和平条約となった。まもなく、グバゼス殺害についての帝国の調査でマルティヌスの責任が明らかになった。軍功のおかげで命は助かったものの、指揮権を失い、557年の春にユスティヌスが後任のアルメニア方面軍司令官となった。この立場で、同年末に帝国への最初のアヴァール人の使節を迎えた。

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