伝記
ヨアンネス1世(アレクサンドリア教皇)は、コプト教会の第29代アレクサンドリア教皇・聖マルコ座総主教である。505年に没した。東方正教会はタライアのヨアンネスを1世と数えるため、この人物を2世とするが、タライアを認めないコプト教会では1世と呼ばれる。
アレクサンドリアでキリスト教徒の両親のもとに生まれ、ニトリアの砂漠にある大マカリオス修道院の修道士となった。先代のアタナシオス2世の死後、人々の目は修道院で長年霊的な修行を積み、その評判が谷に広まっていたこの修道士に向けられた。司教や有力者の代表団が砂漠まで会いに行って選出の望みを伝えると、彼は初め辞退した。しかし彼らの熱意が聖霊の導きかもしれないと考え、神に逆らってはならないと思い直し、自分に資格はないが必要に迫られて受けると述べて、謙遜のうちに引き受けたという。こうして496年9月29日(497年とも伝わる)、本人の意に反するかたちで教皇・総主教に叙階された。学識ある市の聖職者ではなく、砂漠の修道院の修道士から選ばれたアレクサンドリアの司教としては、初めてであった。
在位は8年7か月とされる。在任中は、皇帝から小麦・ぶどう酒・油の贈り物を、かつての修道院のために取りつけたと記録されている。信仰の面ではカルケドン公会議に強く反対する立場をとったが、皇帝ゼノンの合同勅令(ヘノティコン)を受け入れる人々とは、カルケドンへの正式な破門を課すことなく交わりを保った。これによって教会を大きな争いから守ったが、カルケドンにもヘノティコンの融和策にも反対する無頭派の分裂は続いた。在位中には、コンスタンティノポリス総主教座がアレクサンドリア教会との関係を断った。
当時は皇帝アナスタシオスが友好的で穏やかであったため平和が保たれ、アレクサンドリアの教会は栄えたとされる。皇帝は、コンスタンティノポリス総主教マケドニオスがカルケドン公会議の側に立ってローマ司教と書簡を交わし、アレクサンドリアとの関係を断ったことを問題視した。マケドニオスは公会議を破門するよう求められても拒み、511年にコンスタンティノポリスで開かれた会議で座を追われて流刑となり、代わりにティモテオスが立てられた。マケドニオスが廃していた「聖なる神よ、聖なる力ある者よ、聖なる不死の者よ、われらのために十字架につけられた方よ、われらを憐れみたまえ」という三聖頌の唱えも、これを機に復活したと伝えられる。この頌歌は使徒の時代にさかのぼる古いもので、アリマタヤのヨセフとニコデモがキリストの遺体に香油を塗った際、天使が十字架の主をたたえたものだとも語られる。三聖頌そのものは聖なる三位一体に向けられ、誕生・十字架・復活は受肉した御言葉の位格だけに向けられると説明される。同じころには、学識と敬虔さで知られたアンティオキアのセウェロスもこの教皇と同時代に生きていた。
教皇は着任後まず、民に正しい信仰を堅く守るよう呼びかけた。その治世の平穏を乱したのは、アレクサンドリアに広がって多くの人命を奪った疫病だけだった。教皇は疫病のさなかも絶えず民を訪ね、苦しむ者を慰め、悲しむ者を励ました。命日はパション月の4日とされ、コプト教会の聖人暦ではその日に記念される。没年は505年とされるが、コプト暦234年、西暦507年にあたるとする伝えもあり、約9年にわたって知恵と公正をもって民を導いたのち、先人たちのもとへ召されたと語られている。
同じ年に亡くなった人物
- Dracontius (505年)
同じ地域に関係する人物
- サイード・ダルウィーシュ (1923年没)
- Anwar Mesbah (1998年没)
- Justin (566年没)
- Achillas (紀元前46)
- オリュンピオドロス (哲学者) (570年没)